お手柄のパパをイイコイイコしていたナターシャの手を止めたのは、 「そんな指輪を わらわに作ってくれる者はいない」 という、地を這うように低いカトリーヌの呻き声だった。 カトリーヌの その言葉に、ナターシャは驚いたようだった。 だが、自分が何に驚いたのかが わからない――。 ナターシャは そういう目で、ベンチに掛けたままのカトリーヌを見おろした。 おそらく、自身の驚きの意味が わからないまま、ナターシャがカトリーヌに言う。 「カトちゃん、ナターシャと一緒に白詰草の指輪の作り方を覚えようヨ。それで、その指輪を カトちゃんの好きな人にプレゼントすればいいヨ。パパ、白詰草の指輪の作り方、教えて」 ナターシャは、自身の驚きの訳がわかっていない。 それは、作ってもらうことしか考えない――白詰草の指輪を自分で作ることを考えない――カトリーヌの姿勢への違和感だったろうが、ナターシャ自身は わかっていない。 それでもナターシャは、白詰草の指輪は作ってもらうものではなく、自分が作るものだという考えを、カトリーヌに伝えた。 与えられるのを待つのではなく 自分から与えろと、フランス王国の王妃に普通に言ってのけたナターシャに、カトリーヌが 暫時 呆けた顔になる。 「わらわが作るのか? このわらわが?」 「当ったりまえダヨ! ナターシャが作ったら、カトちゃんの好きな人が ナターシャのこと好きになっちゃうヨ。それじゃダメでショ」 「それは そうじゃが……」 「探せば、クローバーはあるヨ。ナターシャ、春に芝生広場の あちこちでクローバーを見たヨ。今は 白詰草の花は咲いてないと思うケド、クローバーの指輪は作れるヨ」 「しかし、わらわは……」 「誰かが作ってくれるのを待ってたら、ずっと待ちぼうけダヨ。寒い北風、木の根っこダヨ。魔法の指輪は、自分で作って、大好きな人にあげなきゃ。ナターシャは、パパとマーマに作ってあげるヨ」 北原白秋作詞、山田耕作作曲の名曲『待ちぼうけ』を知らないカトリーヌには、なぜ ここで“北風”や“木の根っこ”が出てくるのか わからなかっただろう。 だが、魔法の指輪は自分で作らなければ意味がないものなのだということは、彼女にも理解できたらしい。 指輪の魔法の力が及ぶ範囲も、彼女は わかってしまったようだった。 「そなたが、そなたのパパとマーマに愛されるのは当然のことじゃ。じゃが、わらわは――わらわが魔法の指輪の作り方を覚え、この手で作っても、あの人は受け取ってくれないじゃろう。そんなものを贈っても、嘲笑われるだけじゃ」 カトリーヌが愛されたいと願っている相手は、フランス王国ヴァロワ朝国王アンリ2世。 19歳も年上の愛人を喜ばせるために、王冠宝石を贈り、幾つもの城を贈り――つまりは、そういうものに価値があると信じている男である。 野草で作った指輪など、気に入りの愛人に贈られても喜びそうにない男なのだろう。 瞬は、当然、アンリ2世の人となりを知らないが、カトリーヌは そう思っているようだった。 事実も そうなのだろう。 しかし、ナターシャには、そんな人間の存在が理解できない。 「そんなことないヨ。一生懸命作ったら、喜んでくれるヨ。パパ、マーマ。ナターシャの指輪、いらナイ?」 「ナターシャちゃんに指輪を作ってもらえたら、僕と氷河は とっても嬉しいけど……」 「俺たちは嬉しい。だが、心を込めて作った白詰草の指輪をもらっても、喜ばない人間もいるんだ」 自分自身が まさにそんな男――“タイプじゃない女に好かれても困るだけ”の男のくせに、氷河は、白詰草の指輪を喜ばない人間もいるという事実を ナターシャに語ることが不本意でならないようだった。 そんな事実をパパに知らされてしまったナターシャは、もっと不本意である。 「ドーシテ? そんなの変ダヨ! 綺麗な指輪を一生懸命 作ってもらえたら、誰だって嬉しいデショ。一生懸命の気持ちが嬉しいでショ!」 「その気持ちが通じない者もいるんだ」 そんな人間がいることをナターシャに語るのは、もうやめたい。 氷河の不機嫌の度合いが いよいよ増していくので、瞬は慌てて助け船を出すために動いた。 「ナターシャちゃんには、どうしても好きになれない人はいない?」 「エ? ント……ンート、ナターシャは、パパとマーマをいじめる悪者は好きになれないと思ウ」 「なら、氷河をいじめる悪者に指輪をもらっても、ナターシャちゃんはその指輪を素直に喜べないでしょう?」 「デ……デモ、カトちゃんは悪者じゃないヨ! なのに、一生懸命を喜んでもらえなかったら、カトちゃんが かわいそうダヨ。カトちゃんの一生懸命はどうなるノ。そんなの、カトちゃんが かわいそうダヨ!」 ナターシャの大きな瞳から 大粒の涙が ぽろぽろと零れ落ちることになったのは、一生懸命を喜べない人間というものが存在することを、ナターシャが認めないわけにはいかなかったから――だったろう。 ナターシャも、パパをいじめる悪者の一生懸命は嬉しくない。 そういう相手は、確かに存在する。 だがら、ナターシャは、その事実が とても悲しかったのだ。 「そうだな。かわいそうだな」 だからといって、“タイプじゃない女”に優しくしてやる気にはならないが、かわいそうだとは思う。 瞬の肩に顔を押しつけて泣き出したナターシャの髪を、氷河は 二度三度 ゆっくりと撫でた。 それまで掛けているベンチから立ち上がる様子を全く見せなかったカトリーヌが 初めて立ち上がったのは、こんな幼い子供にもわかるほど、自分が哀れな人間であることに衝撃を受けたからだったのだろうか。 自分のために流されるナターシャの涙が 嬉しかったからか、あるいは悲しかったからなのか。 ベンチから立ち上がったカトリーヌは、瞬が思っていた以上に小柄な女性だった。 瞬の肩の高さに、やっと頭が届く程度。 その身長は150センチにも達していないようだった。 「泣かずともいい。ナターシャ。わらわは悪者なのかもしれぬ。夫が愛する女を、わらわは どうしても好きになれぬ」 小さなフランス王国の王妃が、泣いているナターシャの肩に話しかける。 さすがに その気持ちをナターシャにわかってもらおうとは思ってはいないだろうから――もしかすると、それはカトリーヌの告解だったのかもしれない。 妻を愛してくれない夫が愛している女を好きになる。 それは 難しいことである。 悪者でなくても難しい。 夫の愛人を愛せないから悪人――ということにはならないだろう。 『汝の敵を愛せ』と聖書が言うのは、この地上世界には 敵を愛せない人間が あふれているからなのだ。 自分を愛してくれない夫に愛されることを望むカトリーヌ。 彼女自身は、だが、実は 夫を愛してはいないのだ。 彼女は、夫を“ただ愛する”ことはできなかった。 それは権力者の宿命なのか、不幸なのか。 あるいは、プライドの為せるわざなのか。 カトリーヌは、おそらくクローバーの指輪を作ることは、一生しないだろう。 それができないことが 彼女の不幸なのだ。 それができたことが、氷河の幸運。 そして、野草の指輪を喜んでくれる瞬に出会えたことが、氷河の二度目の幸運。 愛する人のために白詰草の指輪を一生懸命 作ることのできる人間と できない人間がいる。 その指輪を喜んで受け取ってくれる人に 出会える人と出会えない人がいる。 それが、現実。 それが、魔法の力を用いても覆すことのできない現実だと、彼女は 自分と自分の運命を理解した(悟り、諦めた)ようだった。 自分は、自分を変えることはできず(せず)、自分の周囲の環境を変えるために努めることもできない(しない)――と。 「ナ……ナターシャが カトちゃんに指輪を作って上げるヨ! あっちの日当たりのいい方に、クローバーが集まって生えてるとこがあるんダヨ。ナターシャ、見たことあるヨ!」 カトリーヌを慰め力づけようとするナターシャの瞳は涙でいっぱいだったが、ナターシャが慰め力づけようとしているカトリーヌの瞳には涙はない。 夫に愛されない妻、夫に見捨てられた妻と、家臣たちに侮られているフランス王妃。 カトリーヌは、彼女の宮廷で 人に涙を見せるわけにはいかないのだろう。 そんな弱気を人目に さらしたら、途端に侮られ、つけ込まれる。 「ナターシャは、よい子じゃの。わらわは、そなたのように素直で優しい いい子にはなれぬ。だから、わらわは愛されぬのだろう。それは、ただの自業自得じゃ」 「カトちゃん、いい子にならないの……?」 いい子になれば、パパとマーマが喜んで、愛してくれるのに。 なのに、いい子になろうとしないカトリーヌの気持ちは、ナターシャには理解できないものだったろう。 愛されるためには努力が必要。 それがわかっているのに、その努力をしないとは。 「わらわがナターシャのように素直で心優しい王妃になったら、フランスの宮廷は破滅の憂き目を見ることになるじゃろう」 カトリーヌの声音は 諦めでできていて、生気が全く感じられなかった。 ナターシャが不安そうに眉根を寄せる。 「キューテーってナニ? それはパパとマーマに いい子だって褒めてもらうことより大事なものナノ? パパとマーマに大好きって言ってもらうことより大事なことナノ?」 宮廷が、愛する人に愛してもらうことより大事なものであるはずがない。 愛する人に愛されることの方が、ずっと大事。誰にとっても、ずっと大事。 だが、この世には、大事でなくても捨てられぬものというのが存在するのだ。 「魔法の指輪を見付けるのは諦める。そんなものに頼ろうなどとは、わらわもヤキがまわったものじゃ。魔法の指輪は わらわのものにはならぬ。ノストラダムスは そのことを わらわに知らせるために、わらわを ここに送り込んだのじゃな。作ろうと思えば いくらでも魔法の指輪を作ることができる、この世界に」 「カトちゃん、ダイジョブなの……? 指輪 作らなくても?」 「大丈夫じゃ。わらわを誰だと思っている。世界最先端の文化芸術を誇るイタリアから、フランスのように野蛮な二流国に嫁いできてやったローマ教皇の姪じゃぞ!」 「ナターシャは、世界でいちばんカッコいいパパと 世界でいちばん綺麗で優しいマーマの娘ジャゾ!」 「それは すごい。羨ましいの」 それは虚勢だったのか。 むしろ力強い開き直りだったのか。 もしかしたら、その両方だったのかもしれない。 ナターシャの勇ましく 誇らしげな名乗りに、言葉通り 羨ましそうに微笑むと、カトリーヌは、 「わらわは、あの伏魔殿に帰るぞ、ノストラダムス」 と、宙に向かって 声を発した。 「カトちゃん……!」 ナターシャがカトリーヌの名を呼んだのは、魔法の指輪が見付からなくても 夕暮れまでは彼女と一緒にいられると思っていたからだったろう。 「これ以上、ここにいると、わらわまで 素直な いい子になってしまいそうなのじゃ」 カトリーヌの苦笑を追いかけるように、 「では、お戻りください、王妃様」 というノストラダムスらしき男の声が響いてくる。 フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、誰からも愛される魔法の指輪を手に入れるべきではない。 その事実を カトリーヌに自覚してもらうという目的は果たされたので――ノストラダムスはカトリーヌの命令を速やかに実行に移したようだった。 氷河と瞬と、瞬に抱きかかえられたナターシャは、気が付くと、誰も座っていない4人掛けのベンチの前に並んで立っていた。 |