どうして僕は、そんなことを、こんな時に思い出しているんだろう。
誰が誰に似ていようが似ていまいが、そんなことはどうでもいいことなのに。
ハーデスは アテナとアテナの聖闘士の力によって倒され、ハーデスの真実の肉体はもう 完全に消滅したんだから。
そうして今、冥界は壊れかけている。
ホフマンの砂男。
そんな昔の他愛のない お喋りを思い出している場合じゃない。僕たちには時間がない。

このエリシオンから脱出しなければ、僕たちは 崩壊する冥界と共に消滅するしかないだろう。
今すぐに――冥界が壊れ、地上世界につながる道が消えてしまう前に、僕たちは冥界を脱出しなければならない。
けれど――。


星矢の命と小宇宙が消えかけている。
地上世界より広い冥界。
しかも、このエリシオンは、神にしか通ることのできない超次元によって、人間の魂が至ことのできる冥界からも遠く隔てられている。
エリシオンから、神にしか通ることのできない超次元を超えて嘆きの壁のあった場所に行き、そこから更に冥界を駆け抜けて地上世界まで。
神にしか通ることのできない超次元さえ超えられれば、障害は 物理的な距離だけ。どうとでもなる――だろうけど。
でも、神にしか通ることのできない あの超次元は、飛び越えようとする人間の肉体の力と精神の力、第八感を超える小宇宙と神の加護があって初めて飛び越えられる時空だ。
死に瀕している星矢に、渡ることができるだろうか。
今の星矢には、神の加護以外の力が すべて失われている――残っている力は極少だっていうのに。

「僕が一時的にでも、ハーデスに支配されてしまったせいだ……。僕がハーデスを退けられていれば、星矢はコキュートスに落とされることもなく、力を殺がれることもなかったのに、僕のせいで星矢は ハーデスの剣を受けることになってしまった――」
「そんなことはないわ。あなたはハーデスの魂を退けた。そして、ハーデスは倒された。私たちは、必ず地上世界に帰ります。光あふれる私たちの世界に」
そう告げるアテナの顔が険しい。
それが乗り越えることの困難な試練だと、成し遂げることが ほぼ不可能な作業だと、彼女は感じている。
神にしか超えることのできない あの時空を、今の星矢に超えることができるのか。
今の星矢に、その力があるか。
弱り切っている星矢の命が、あの超次元の持つ圧倒的な力を耐え抜くことができるのか。

物として運ぶことは容易だ。
けれど、生命ある人間として あの時空を飛び越えるには、今の星矢の力は 弱すぎる――足りない。
星矢は死にかけているんだ。
命あるまま、地上世界に帰ることは難しい。
アテナにも、それができるだけの力が 星矢に残っているという確信がないんだろう――その力は残っていないという確信だけがある。
だから、彼女は泣いているんだ。
『星矢、死んでは駄目』と叫び、泣いている。
力が足りないんだ。
死に瀕している星矢と仲間たちを、命あるまま、地上に運ぶには。

僕は、でも、この状況に、なぜか心を安んじていた。
ほっとしていたんだ。
一時的にとはいえ ハーデスに この身体を支配されて アテナと仲間たちに敵対したにもかかわらず、僕が こうして生き延びているのは、このためだったのだと思うことができたから。
僕は、自身の罪を贖うことができる。
しかも、星矢の命を救うことで。
こんな嬉しいことはない。

「沙織さん――アテナ。僕の小宇宙と生命を、星矢を地上に運ぶのに使ってください。僕は、エリシオンに残って、みんなを地上世界に運ぶ道を作ります。僕自身の力、アテナの血の加護、ハーデスの力の残骸。星矢を救えるだけの力が、幸い、今の僕にはある」
「何を言っているの」
「言葉通りです。僕に、罪滅ぼしをさせてください。星矢さえ生き延びてくれれば、世界はきっと救われる。星矢が死んでしまっては駄目なんだ。星矢の命が失われてしまっては、アテナとアテナの聖闘士の勝利に意味がない。星矢だけは死んじゃいけない」
「瞬……」
沙織さんは苦しそうな目で 僕を見詰めた。

その通りだから――星矢がいなきゃ、アテナとアテナの聖闘士の勝利に意味がないから――だからこそ逆に、沙織さんは すぐに僕の提案を受け入れることができなかったんだろう。
星矢が生き延びなければ、世界は救われない。
星矢さえ生き延びれば、この世界は立ち行くんだ。
星矢は英雄。星矢は特別な英雄だ。
ハーデスも言っていた。
かつて彼の身体に傷をつけた男もペガサスだったと。
それは 定めなんだ。
“ペガサスは特別”という定め。

「皆で帰らなければ、勝利の意味がありません。あなた方を ここに運ぶために 自らの命をかけた黄金聖闘士たちだって、あなた方のうちの ただ一人でも犠牲になったら、きっと悲しみます。あなた方は 全員が揃って帰らなければならないんです。でなければ、希望が欠けることになる。それでは 勝利も空しい」
そうじゃないことを知っているくせに。
アテナ。いいえ、沙織さん。そんな悲しい無理をしないでください。
あなたは、そうする義務も義理もないのに、地上世界に生きる人間を愛し守ってくれている、寛大で偉大な女神。
もっと冷徹でいてもいいんです。

僕の望みは、世界の平和が守られること。
地上世界に存在する多くの命が、理不尽な力によって消される不幸を防ぐこと。
そのためなら、僕の命なんか惜しくありませんよ。

「僕なら、犠牲になっても、そういう星のもとに生まれたんだろうと、皆が納得します。僕なしでも前進できると思うんです。世界も、聖域も、僕の仲間たちも。星矢さえ――星矢さえ、生きていてくれれば」
「瞬……」
アテナ――沙織さん。
頼みますから、そんな つらそうな目をしないでください。
僕の命で、世界の平和を、仲間たちの命と未来を守ることができるんです。
僕は嬉しい。
星矢の命が失われてしまうなら、自分が生き延びることができても、僕は幸せにはなれません。

僕が、視線で そう告げて アテナに微笑んだ時。
突然 氷河が、
「俺も残る」
と言い出して、僕を慌てさせてくれた。






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