世界が白光に包まれて――あまりの眩しさに、俺は目を閉じた。
閉じたつもりだったのに、俺は逆に目を開けたのだったらしい。
俺が目を開けると、そこにナターシャを抱きかかえた瞬がいた。
俺は、俺の部屋(瞬の部屋でもある)のベッドに横になっていて、眩しいと思ったのは、瞬に抱きかかえられているナターシャが、腕をのばして カーテンを開けたからだったらしい。

「瞬……ナターシャ……」
光の中に立つ二人は、逆光になっていて、俺は しばらく その表情を確かめることができなかった。
光に目を慣らすために、一度 顔の半分を手で覆い、それから ゆっくりと その覆いを外す。
「俺は夢を見ていたのか……」
そう呟いたくせに、俺は 自分が見ていた夢の内容を明瞭に思い出すことができなかった。
だが、まあ、夢というのは、大抵 そういうもの。
追いかければ逃げるものだ。

不思議に美しく微笑んで、瞬は頷いた。
ジャンヌ・ダルクの幻視の中に現れた聖大致命女エカテリーナが、こんなふうに優しく強く神秘的な微笑を浮かべていたに違いない。
――と、俺は思った。
幻視の聖女が、命じるように確かな口調で、俺に言う。
「普通の夢ではないけどね。たとえ他の世界を犠牲にしても、狂ってしまった自分の世界を正したい、狂ってしまった時間を戻したい。そう思ってしまう人たちの気持ちを わかってもらおうと思って、氷河には ちょっと大掛かりな夢を見てもらったの」

俺に、ロスト世界の者たちの心情を理解しろと?
愛する弟を失って狂ったアイオロスの気持ちを?
確かに、あんなに健気なナターシャが、あれほど俺を愛してくれているナターシャが、どんな罪も犯していないのに死んでしまうような世界なら、俺だって、あっちの世界のアイオロス同様、間違った世界を作り直したいと思うくらいのことはするかもしれない。
だが、俺には、おまえがついている。
俺は、アイオロスのような狂気には囚われないぞ。
だが、あれが夢?
あれが、瞬が見せた、ただの夢だったというのか――?

「夢……にしては――」
夢にしては、やけにリアリティがあった――ありすぎた。
俺の腕の中で、死の重みを増していくナターシャの身体の冷たさと その感触が、やたらに――いや。
あんな悲しい夢は、夢のままにしておこう。
どちらにしても、もう はっきりとは思い出せない。
ナターシャの亡骸の感触が、急速に薄れていく。

「消えた命を取り戻したいと願う、ロスト世界の人たちの気持ちを わからないままで戦うと、憎まなくていい人たちをも憎むことになりかねないから」
「そんなことはないだろう。むしろ、憎んでいる方が 心は苦しまずに戦えるのではないか」
瞬への 俺の反駁は、後半は力のない呟きになった。
瞬は、強くて優しいからな。
だから、瞬は、敵には敵の正義、愛、願いがあったことを理解した上で 彼等を倒してやりたいんだろう。
俺は、瞬の そんな強さや優しさを否定しようとは思わない。
瞬がいる高みにまで至るのは、俺には なかなかの難事業だが、瞬の考えを否定しないだけなら、それは 今の俺にも 簡単にできる。
だから、俺は 俺にできることをした。

ナターシャが、瞬の腕から俺のベッドにダイブしてくる。
夕べ瞬がいた場所に飛び下りたナターシャは、その場に座ったままで撥ねるという器用なことをした。
撥ねながら、俺に起床を促してくる。
「パパ、お寝坊さんダヨ。パパのお店は、今日からネンマツネンシのお休み。今日は、ナターシャとアソビオサメに行く約束をしたヨ。パパ、忘れてナイ?」
「あ……ああ、もちろんだ」
頭の中には まだ霞が少し残っていて、俺の返事に倦怠の気配が漂っていたのか、ナターシャはベッドの上で撥ねるのをやめ、俺の顔を心配そうな目をして覗き込んできた。

「パパ、オツカレなら、アソビオサメは アソビゾメに延期してもいいヨ」
こんなに小さな娘にオツカレを気遣われていたら、俺はアテナの聖闘士廃業だ。
「遊び初めもする」
「ワーイ!」
笑顔全開で万歳をしたナターシャを、瞬は 再び抱き上げた。
「じゃあ、起きて。朝ごはんを食べて、公園に行こう。帰りに、おせちの材料を調達」
「それで、パパとマーマとナターシャで、可愛い おせち料理を作るヨ! マーマはカマボコと大根の魔術師ダヨ!」

瞬が華麗なメス捌きで、食材に次々に飾り切りを施す技が、ナターシャには魔術に見えるらしい。
ちなみに、瞬ほど細やかな作業はできないが、俺も リンゴでナターシャの顔を作るくらいの技は持っている。
「7分でダイニングに来て」
妙に半端な時間制限をつけて 部屋を出ていこうとした瞬を、俺は ふと引き止め、そして尋ねたんだ。
「瞬、この世界は現実の世界だな?」
と。

一瞬、その場に立ち止まった瞬が、ゆっくりとベッドの上にいる俺を振り返る。
まだ寝ぼけているのかと言いたげな呆れ顔で、瞬は浅く頷いた。
「もちろんだよ」
「……そうだな。これが幻影や虚構の世界であるはずがない」
俺は、まだ寝ぼけているんだ。
寝ぼけているだけ。
そろそろ夢から覚めなければならない。
目覚めたら、人は、夢の世界でのことは忘れなければならないんだ。
現実の世界で生きていくために。
俺の聖大致命女がまた、幻のように微笑む。

「でもね。この世界が、たとえ虚構でも、異世界でも、ナターシャちゃんが見ている夢でも、神が見ている夢にすぎなくても――人は自分が生きて存在している世界で懸命に生きていくしかないんだよ」
「夢でも虚構でも、自分が生きて存在している世界で……」
それは、そうだ。
人は、自分が生きて存在している世界で生きていくことしかできない。
洞窟の壁に映るイデアの影。水槽の脳。世界を疑っていたら、人は生きていられない。
俺は、笑って 瞬に頷いた。


「ナターシャ、今年はとってもイイコだったヨ! 来年もイイコでいるヨ!」
ナターシャのイイコアピールは、寝ぼすけのパパと たくさん遊んでほしいからか。
「ああ」
遊び納めと おせち作りと 遊び初め。
イイコのナターシャを 喜ばせるための予定は目白押しだ。
俺は 今日の自分の仕事に取りかかるべく、速やかに ベッドを出ることにした。
アッパーシーツごと、毛布を自分の上から引き剥がす。
途端に、
「氷河っ!」
という瞬の叱責が飛んできたのは、つまり 俺が いつも通りに すっぽんぽんで寝ていたから。

「どんな世界に生きていても、ナターシャちゃんに そんなものを見せるのは悪い子だよ!」
『おまえは 喜ぶくせに』とは、いい子の俺は言いません。
いい子の俺は 余計なことを言わずに ぐっとこらえたのに、瞬は ナターシャを抱きかかえたまま、冷たい音を響かせてドアを閉じて、部屋を出ていってしまった。

現実の世界なら ともかく、俺の夢の中で、瞬が こんなに俺に冷たいはずがない。
やはり、これは現実。
もとい、これが現実なのだと吐息して、忙しい一日を生きるため、俺は俺たちのベッドを出た。






Fin.






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