氷河と瞬考案の雑煮を心行くまで堪能した星矢と、その星矢を見守っていた紫龍を 駅まで見送った帰り道。 光が丘公園のちびっこ広場には、正月くらい家で のんびりしていたい大人たちの説得に成功した子供たちで あふれていた。 その子供たちに混じって、ナターシャも 寒さなど物ともせず、頬を真っ赤にしてザイルクライミングの制覇に挑んでいる。 ベンチは よその家のお父さん お母さんたちに譲って、ザイルクライミングのポール脇に立ち、登りにくいザイルと元気に格闘しているナターシャを見守っていた瞬は、ふいに見知らぬ初老の紳士に声をかけられた。 それも、 「瞬くん――ではありませんか?」 と、名指しで。 「はい?」 60は過ぎているだろうが、70にはなっていない――だろうか。 黒髪より白髪の方が少々多め。 細い黒縁の眼鏡に、黒いカシミヤのロングコート。 素材も仕立てもいいが、垢抜けてはいない。 印象は、定年を迎えたばかりの小学校の校長先生。 瞬が、そんな印象を抱くことになったのは、彼の『瞬くん』という呼び方のせいだったかもしれない。 人に そんなふうに呼ばれた経験を、瞬は、城戸邸に引き取られる前にいた養護施設と教会での記憶の中にしか持っていなかったのだ。 見覚えはない。 アテナの聖闘士になってから 知り合った人たちは、病院で診察した患者を含め、すべて記憶しているので、それ以前の知り合い、もしくは、一方的に見知られているだけの人間か。 答えに行き着くために、瞬は、 「そうですが」 と、彼に答えた。 紳士が その返事を聞いて、ぱっと表情を明るくする。 「やはり! 女の子のように可愛らしい顔立ちの子だったから、大人になったら、どんなふうになるのかと思っていたのだが――なるほど、なるほど……」 嬉しそうに、紳士が頷く。 その『なるほど』はどういう意味なのかと問い返したい気持ちを抑えて、瞬は 彼の自己紹介を待ったのである。 ところが彼は、そういう礼儀より、彼自身の好奇心を優先させた。 「まさか、こんなところで会うとは……。瞬くんの子供は どの子だね。今は どんな仕事に――?」 彼は こちらを知っており、それゆえのフランクな態度なのだろうが、こちらは 彼が何者なのかを知らない。 そういう相手に、自分の仕事だけならともかく、子供の情報を渡すわけにもいかず、瞬は返答に窮してしまったのである。 そんな瞬を、氷河が その不愛想で救ってくれた。 「何者だ」 綺麗で 体格がよく、一輝ほど わかりやすく強面ではないが、よく見ると 眼光鋭く 冷ややかで、見るからに危険な取り扱い注意人物。 氷河に 端的に無礼を指摘されて、紳士は 震え上がった――ようだった。 「あ……ああ、失礼。私は、以前 瞬くんがいた養護施設の施設長をしていた者で、もう何十年も昔のことだし、瞬くんが 私のところにいたのは ほんの半年ほどだったが、あ、いや、もしかして――」 彼が慌てて 自己紹介を中断したのは、そういう施設にいたことを 余人に知られることを厭う(元)児童が多いからなのだろう。 知らせてはならないことを、知らせてはならない人に知らせてしまったのではないかと、彼は うろたえたのだ。 自己紹介をしない彼の無礼は、彼の用心と思い遣りが 癖になったものだったのかもしれない。 瞬は、彼の心を安んじさせるために 笑顔を作った。 「僕は、すぐそこの光が丘病院で医師をしています。僕の子供は――僕たちは、僕たちと同じ境遇の子を引き取ったんです。彼と育てています」 「ああ」 お互い 過剰に情報を渡し合うことをせず、詮索もし合わない。 瞬の返答で、彼は 瞬の望みを察してくれたようだった。 にこやかに、彼は、センシティブな個人情報が絡まない話題を、その場に持ち出してくれた。 「成功して、幸せでいるのなら 何よりだ。まあ、君の成功は 幼い頃から約束されているようなものだったがね。松の内に瞬くんに会えるとは縁起がいい。今年の私は ついているのかもしれないな」 「僕の成功が約束されていた……?」 愛し守ってくれる親はなく、家も財もない貧しい兄弟。 身を寄せた施設では 長くいることを望まれず、どうでも たらいまわしにされ、最終的に流れ着いた場所は、否応なくアテナの聖闘士になるための試練を負わされる城戸光政の私邸。 そんな自分のどこに――あの頃の自分のどこに――成功を約束された子供の予兆があったというのか。 むしろ、自分は、兄にとっても、自分を預かった施設にとっても 疫病神でしかなかったはず。 昔から そう信じ込んでいた瞬は、自分との出会いを喜ぶ紳士の言葉を訝り、首をかしげたのである。 「まさか。殊更 卑下するつもりも、運命を恨むつもりもありませんが、僕は 成功にも幸福にも縁のない、不遇で不吉な子供でしたよ。僕のせいで、兄がどれだけ つらい思いをしたか――」 瞬との再会を『縁起がいい』と喜んでいた紳士は、縁起がいい(はずの)人間の表情が曇るのを認め、驚き、戸惑ったようだった。 だが、最後に笑顔になる。 「一輝くんが どんな力にも決して屈することなく、どんな力にも決して打ちのめされることのない、心身共に強靭な子供でいられたのは、君がいたからだよ。彼も もちろん元気でいるのだろうね? 彼の生命力は 驚異的だった。君を守るためになら、地獄の底からでも蘇ってきそうな迫力と凄みがあって――当時、彼はまだ 5、6歳の子供だったのだが」 「あいつは、そんなガキの頃から不死身だったのか」 称賛より非難の響きの強い氷河の呟きで、瞬の兄の健在を知った紳士は、自身の予見が正しかったことを喜び 安堵したように、口許をほころばせた。 「君は、我々 児童福祉関係者の間では、弁財天と呼ばれていたよ。なにしろ綺麗だったからね。大黒天や恵比寿様に なぞらえることはできなくて――」 彼は、男子である瞬を女神に なぞらえたことを申し訳なく思っているようだったが、瞬は、それが疫病神でなかったことにこそ、驚いたのである。 弁財天は福の神―― 七福神の一柱ではないか。 「他の誰かと 間違えているのでは? 僕は……兄だけでなく、周囲の 多くの方々に災厄を もたらしてばかりだったと、そう聞かされていました」 『そうだったんですか』で聞き流してしまえばよかったのに、瞬が つい尋ね返してしまったのは、彼の言葉が あまりに思いがけないものだったから。 それこそ、20年以上の長きに渡って、『こうである』と思い描いていた自画像と 全く異なる肖像画を見せられた気分を、瞬は味わっていたのだ。 正反対の二つの肖像。 どちらが真実のものなのかを確かめずにいると、アイデンティティの維持が困難になる。 瞬の反駁を意外に思ったのか、あるいは 妥当な疑念と考えたのか、紳士は しばしの間を置いて、長い溜め息を一つ作った。 「確かに……君をいじめたり、悪意を持って君に近付いた人間は、それが子供であれ 大人であれ、必ず 怪我をしたり、事故に巻き込まれたりしていたからね。だから、不吉を感じて、君たちを他の施設に移したがる者は多かった」 「ええ」 「だがね。保護している児童の数に応じて、予算や補助金の額が決まる養護施設で、預かっている子供を他の施設に移動させられるということは、財政的に余裕ができた時だけなんだよ」 「……? 意味が……わかりません」 「それは……我々も、当時は気付いていなかったことだから、君に わからないのは当然だ。我々は いまだに、あの現象の合理的な説明を見い出せずにいる。我々が君を弁財天と呼ぶようになったのは、君を手放してからだったしね」 彼は そんなことを話すために瞬を呼びとめたのではなかっただろう。 だが、彼は 長いこと、気に掛けてはいたのかもしれない。 瞬を弁財天とは真逆のものと思っていた頃のことを。 彼の口数が徐々に多くなってきたのは、心の奥底に沈んでいた罪悪感の作用のようだった。 「君たち兄弟を受け入れた施設は、なぜか急に財政的に余裕ができるんだ。予想外の臨時予算がついたり、有名企業や資産家が、何の気まぐれか 多額の寄付をしてくれたり。これなら 厄介な問題児は よそに回しても大丈夫だと思って、君たちを他の施設に移動させると、追加予算や寄付の話は打ち切りになって、今度は 君たちが移動した先の施設に 幸運が舞い込む。そういう流れになっていたのだと 我々が気付いたのは、君たちが城戸光政氏の許に引き取られてからだった」 「僕は……」 「君こそが幸福の女神で、君を受け入れた施設には幸運が舞い込む。君を手離すと、福も去っていく。君に害を為す者は 災難に見舞われる。君を引取った城戸光政氏のグラード財団が いよいよ隆盛を極めていく報道に接するたび、その推察は的を射ているのだという思いが強まった。城戸氏の訃報に接した時、氏の許を君たちが去っていたことを知り、それは確信に変わった。君こそが、幸福と幸運をもたらす女神だったのだと」 『申し訳なかった』と、彼は続けていたかもしれない。 滔々と、自らの推察を語り続ける紳士に圧倒され、瞳を見開いている瞬と氷河の様子に、彼が気付かなかったなら。 気付いたので、彼は、自身の長広舌に恥じ入ったように 幾度も目を瞬かせた。 「あ……いや、失礼。不躾に長々と――」 「いえ。僕は ずっと 自分のことを厄病神や悪霊みたいなものだと思い込んでいましたので、お話を伺って、心が軽くなりました。ありがとうございます」 瞬は そう言って、彼に腰を折った。 彼に告げた その言葉は、決して 嘘ではない。 自分は疫病神では なかったのだと わかったことは、実際に 瞬の心を軽くした。 疫病神の正体が わかったことは、瞬の気持ちを かなり重くしたが。 「あなたの今年が いい年になるよう、祈っています」 瞬に そう言われると、長年 心の奥底に淀んでいた澱が取り除かれたのだろう紳士は 嬉しそうに笑った。 「瞬くんが そう言ってくれるなら、きっと そうなるでしょう」 自分自身が福の神になったような恵比須顔になって、彼は改めて 瞬の子供と その名を尋ねてきた。 そして、ザイルクライミングの高さ10メートルの頂上で、下から登ってくる他の子供たちを見守っていたナターシャに向かって、 「ナターシャちゃん、ばいばーい!」 と 大声をあげ、右腕を左右に大きく振る。 見知らぬ おじさんの“ばいばい”に驚かなかったわけではないだろうが、ザイルクライミング登頂成功に気をよくしていたらしいナターシャは、おじさんに負けず劣らず大きな声で、 「おじちゃん、ばいばーい!」 と、別れの挨拶を返したのだった。 |