ナターシャには、何ヶ所か、かくれんぼの時のチェックポイントがあるようだった。 1階のサンルームの、年に数度しか使われない遮光ロールスクリーン収納ボックスの陰。 大抵は鍵がかかっている屋上へのドアの脇の踊り場。 大きな正面階段の裏側に幾つか設置されている、子供なら入ることのできる広さの収納棚。 この屋敷の住人でも 滅多に足を向けない場所、存在さえ知らなかった空間を、ナターシャは てきぱきと効率よく確認していく。 そのあとを ぞろぞろと大人たちがついていく様は なかなか愉快な光景で、魔鈴は『アテナまで一緒にまわる必要はない』と沙織に言ったのだが、沙織は 同道すると言い張った。 沙織の中には、今日 何かが見付かり 何かが起こるという予感があったのかもしれない。 あるいは、ナターシャの日頃の探検の成果が興味深かったのかもしれない。 もしかすると 彼女は、幼い頃の自分の姿をナターシャに重ねていたのかもしれなかった。 10ヶ所ほど、チェックポイントの確認を済ませてから、ナターシャは、 「今日は開いてるカナ……」 と呟きながら、1階のエントランスホールに下りていった。 エントランスホールから東西に のびている廊下。 城戸邸には、その廊下に平行して北側に もう1本、招待客は絶対に足を踏み入れることのない裏方用の廊下があった。 おそらく 城戸邸で最も長い廊下である。 ナターシャは、その廊下を西側に向かって歩き出した。 使用人が仕事で使う廊下なので、装飾の類はないが、幅は客用の廊下とほぼ同じ、照明や空調も最新の設備が整っている。 廊下の西の端は壁になっていて、部屋に続いてはいなかった。 ナターシャは、その突き当りの壁を見て、 「よかった、開いてる!」 と、小さく弾んだ声を上げた。 そのまま、ナターシャは壁に向かって歩いていく。 その足取りには 全く 躊躇が感じられなかった。 ナターシャは、自分が壁にぶつかることを恐れていないようだった。 ナターシャの歩調が あまりに自然で――そのため、瞬たちは、ナターシャに声を掛け 引き止めることすらできなかったのである。 ナターシャの右足の爪先が壁に到達すると、突き当たりの壁は消えた。 その先に、何もない――壁はもちろん天井も床もない空間が ふいに現われる。 窓も照明もないが 明るく暖かい白色の光が満ちているそこは、たとえて言うなら、世界の創造神が 様々の命を作る前に まず光を生んだ場所とでもいうかのような、不思議な空間だった。 その空間の中で、一人の少女が、瞬たちに背を向けて しゃがみ込み、すすり泣いていた。 それが、もう一人ナターシャ――“ナーちゃん”らしい。 ナーちゃんを見付けたナターシャが、彼女の側に駆け寄っていく。 「ナーちゃん、どうしたの。何か あったの?」 「ナタちゃん……」 ナターシャが言っていた通り、水色のワンピース、白いレースの短い上着。一つに まとめて編み込んだ髪を左肩から胸に垂らし、頬を濡らしている少女。 彼女は、ナターシャに問われると、しゃがみ込んだまま 伏せていた顔を上向かせて、ナターシャを見た。 ナターシャが彼女に倣って、その場に しゃがみ込み、二人の少女が額を突き合わせる格好になる。 どこで覚えたのか、誰の真似なのか、ナターシャは 大人ぶった仕草で、ナーちゃんの頭を撫で始めた。 ナーちゃんが、すんすん鼻を鳴らしながら 涙の訳を語り出す。 「ナターシャのパパとマーマが帰ってこないのは、ナターシャが悪い子だからなのかもしれナイ。ナターシャ、お庭の銅像に よじ登ったことあるノ。屋上のプラネタリウムにも 入ったこともあるノ。だから、ナターシャが悪い子だから、パパとマーマは帰ってきてくれないのかもシレナイ……」 「エ」 ナーちゃんの頭を撫でていたナターシャの手が止まったのは、実は、ナーちゃんの言う禁止事項を、ナターシャ自身もしたことがあったからだった。 銅像の時には氷河が、プラネタリウムの時には魔鈴が気付いて、それらは未遂に終わり、それ以降 その二つは“城戸邸でしてはいけないこと”の中に組み込まれるようになったのだ。 ナーちゃんは未遂に終わらなかったのだろうか。 悪いことと知らずにしてしまい、あとになってから それは“してはいけないこと”だと知らされて、ナーちゃんは 背筋が凍る思いをしたのかもしれない。 どんな経緯で そんなことになったのかは わからないが、ともかく、ナーちゃんは いい子ならしないことをしてしまい、そのことをパパにもマーマにも ずっと言わずにいたのだ。 その秘密がパパとマーマの知るところとなり、そのため パパとマーマは自分を迎えにきてくれないのではないかと、ナーちゃんは案じている。 「だったら、ナターシャ、ゴメンナサイする。パパ、マーマ、帰ってキテ。ナターシャ、もう一人はイヤダヨ!」 水色のワンピースのナターシャは、ついに その場にぺたんと座り込んでしまった。 「ナーちゃん……」 ツインテールのナターシャが、立ち膝で 友の傍らに寄り添い、小さな手で 友の震える肩を抱きしめる。 「ナーちゃんのパパとマーマは帰ってくるヨ。きっとダヨ。ナターシャたちのパパとマーマが ナターシャたちを放っとくはずないヨ!」 「デモ、ナターシャは、もう何十年も パパとマーマのお迎えを待ってるんダヨ!」 ナターシャの励ましは、ナーちゃんの涙声で打ち消され、ナターシャは―― ナターシャも―― ナーちゃんと同じだけ悲しそうな目になった。 「ナーちゃん……」 パパとマーマのお迎えを何十年も待っているナーちゃんの姿が幼い子供のままであることを、ナターシャは『おかしい』とは思わなかったらしい。 ナターシャは、子供が何十年も生きて大人になる様子を見たことがなかったし、彼女自身もまだ 何十年も生きてはいなかったので、子供の成長という事象の具体例を知らなかったから。 いずれにしても、何十年もパパとマーマの帰りを待っている水色のワンピースのナーちゃんが、ナターシャ同様に 子供であることは確かだった。 身体は言うに及ばず、その心も、知能も。 彼女はずっと、パパとマーマのお迎えを待ち続け、パパとマーマを探し続け――それだけをして、大人になるための学習も経験も積んでいないのだから、それは自然で当然のことである。 「ナ……ナターシャは信じてないけど……ずっと前に、ナターシャのパパとマーマは、地上の平和を守るために 死んじゃったって、タツミが誰かに話してるのを聞いたことあるノ。デモ、ナターシャはそんなことないって思うノ。パパとマーマは、必ず帰ってくるって、ナターシャに約束してくれたノ。ナターシャがイイコで待ってタラ、必ず帰ってくるって、ナターシャに約束してくれタノ。パパとマーマは絶対に死んでない。パパとマーマは きっと、ナターシャが悪い子だから帰ってこないだけなんダヨ……!」 「ナーちゃん……」 ナーちゃんは、そうであってほしいと望んでいるのだろうか。 そうではなく、パパとマーマが迎えに来てくれないのは 自分のせいだと思って、苦しんでいるのだろうか。 そして、彼女が 彼女のパパとマーマを何十年も待っているというのは事実なのか。 それとも、それは 彼女の主観だけのことなのか――。 ナターシャは、ナーちゃんに『そうだ』と言えず、『そうではない』とも言えず、返答に窮してしまったようだった。 『そうだ』と言えば、ナーちゃんのパパとマーマは生きているが、ナーちゃんが悪い子だからナーちゃんを迎えにきてくれないことになる。 『そうではない』と言えば、ナーちゃんのパパとマーマが ナーちゃんを迎えにきてくれないのは、ナーちゃんのせいではなく、ナーちゃんのパパとマーマが死んでしまったから――ということになってしまう。 ナターシャには、そのどちらも、自分の運命として受け入れられないものだったのだろう。 当然、ナーちゃんの運命としても、その両者は受け入れ難いものだった。 |