「無理にでも 催眠療法を施して、スキアの記憶を すべて掘り起こしておけば、事前に発見できたのかもしれない……」 沙織が後悔を口にすることは珍しい。 スキアの人権を尊重し、彼が自主的に語ること以外、彼の記憶と心に関する情報を集めなかったことを、今 沙織は悔やんでいた。 彼女の声は、ひどく重く暗い。 グラードのメディカルラボの白い廊下の冷え切った空気に、彼女の声は完全に同化していた。 どんな時にも 希望を語る彼女が、今日に限っては後悔だけ。 スキアの命の炎は まもなく消える――確実に消えるのだということが、瞬には わかった。 冥界での戦い。 ハーデスが瞬を依り代として支配できなかったこと、その瞬と瞬の仲間たち――人間であるアテナの聖闘士たちが生きたまま エリシオンにやってきたことを知ったヒュプノスは、咄嗟に万一の時のことを考えたらしい。 つまり、冥府の王ハーデスが(当然、その従属神も)アテナとアテナの聖闘士たちに破れた時のことを。 決して 起こってはならない最悪の事態。 決して 到来してはならない、その時。 冥界の王を敗北に導いた者たちへの復讐を果たすべく、眠りの神は、スキアに強烈な暗示をかけたのである。 もし スキアが、エリシオンを出ることになったなら、そして スキアと同じ顔の者が生きていて、その者の傍らに眠りの神がいなかったなら、外の世界で 100回目の眠りから覚めた時、その者の命を絶て――と。 それは、眠りを司る神が、人間の 普段は眠っている深層心理にかけた暗示。 スキアには 逆らうことの許されない強烈な暗示だった。 だが、スキアは逆らった。 ヒュプノスの暗示に従って瞬の命を絶とうとする自らの手足を、スキアは必死に止めようとした。 スキアの心は、自分の内に残る眠りの神の命令に 逆らい、抗い、戦い――最後に スキアの中で、眠りの神の力を道連れに爆発した。 自分の肉体の命を絶つことで、スキアはヒュプノスを倒し、瞬を守ろうとした――守り抜いたのだ。 「スキアが、いかにも見付けてくれと言わんばかりにエリシオンの園に立っていたのは――それもヒュプノスの策だったのでしょうね」 ヒュプノスの策と わかっていても、崩壊するエリシオンに 生きている人間を残し、自分たちだけが地上世界に逃げ延びるようなことは、アテナにはできなかっただろう。 沙織が悔いているのは、スキアを救ったことではなく、自分がヒュプノスの策を見抜けなかったことであるに違いなかった。 「至福のお花畑で ただ生かされているだけだったスキアが、アテナの聖闘士である瞬を殺せると、本気でヒュプノスは思っていたのか」 アテナが後悔する様は見ていたくない。 非は、アテナにも 瞬にも スキアにもない。 氷河は、責めを負うべきヒュプノスを貶めた。 「ヒュプノスは、スキアに瞬を殺せるとは思っていなかったでしょう。そうではなく、ヒュプノスは、瞬が抵抗しないと思ったのではないかしら。実際、瞬はスキアに抵抗しなかった。ヒュプノスの計算違いは、むしろ、瞬の隣りに あなたがいたことの方だったでしょうね」 「それは――」 事実と異なる嘘の言い訳を連ねて、この気まずい状況を取り繕っても何にもならない。 沙織は、どうせ気付いている。 氷河は、その先を言わなかった。 スキアは、ヒュプノスの暗示への自爆としか言いようのない衝撃の余波で 心臓の弁が壊れ、彼の心臓は今、血液の逆流と停滞を交互に繰り返しているらしい。 手術をするには体力が足りず、機器の力で一時的に心臓を働かせ続けることのできる時間も限られている。 「彼が話したいことがあるそうです」 看護師ではなく医師が 沙織たちを集中治療室の中に招き入れたのは、もう医師にもできることはないという事実を、暗に伝えるためだったろう。 寝台に横たわっているキアは、瞬の無事な姿を見ると、ほっとしたように笑った。 数えるほどしか見たことのないスキアの笑顔は、幼い子供のそれのようで、だが 同時に、長すぎる人生を生き抜いた老人のそれのようでもあり、瞬の心を切なくさせた。 スキアの心臓は いつ止まるか わからないが、意識は明瞭らしい。 あるいは スキアは、彼の小宇宙の力で自身の意識を保っているのかもしれなかった。 スキアが、まるで 千年も昔の初恋の人を見詰めるような目を 瞬に向けてくる。 「僕は、あなたの予備で……あなたが死んだり、あなたが 汚れて冥府の王の魂の器の務めを果たせなかった時に初めて役に立つものだと言われていたんです。実際には、あなたの生死に かかわらず、あなたが清らかか否かに かかわらず、僕は誰の役にも立たないものだったけれど……。少なくとも、僕には、ハーデスの魂の器としての存在価値はなかった」 「そんな存在価値なんか、ない方がいいに決まっているよ!」 小さな悲鳴のように瞬が言うと、スキアは寂しそうに、ゆっくり一度だけ瞬きをした。 「エリシオンを出て、このラボで検査を受けている間ずっと、僕では 務まらない務めを果たすことのできた あなたは、どんな人なのだろうと、どれほど素晴らしい人なのだろうと、僕は それだけを考えていた。あなたを 知りたいと思った。きっと、とても美しくて、冷たく澄み切った泉の水のような人なのだろうと、想像していた。実際に会ってみたら、あなたは 冷たく澄み切った泉の水ではなくて、温かくて 絶えず変化する色を持った花だった。いつかは死ぬ花だ。でも きっと、だから あなたは いつも生き生きしていて美しいんだと思った。想像と違ったけど、あなたは素晴らしい人だった。あなたは 優しくて、仲間たちに必要とされていて、存在価値があって――あなたは 僕とは違う人間だった」 「何が違うの! 僕とスキアは 同じ人間だよ!」 スキアが 自分を瞬の予備だといい、自分には存在価値がないと言い募ることが、瞬には つらかった。苦しく、悲しかった。 人を嫌うことや憎むことを いいことだとは思わないが、せめてスキアが 彼のオリジナルを嫌い、憎んでくれていたら、同じことを言われても、これほど つらく 苦しく悲しくはない。 スキアが、彼を不幸にした者たちを――瞬を、ヒュプノスを、ハーデスを、運命を――嫌っておらず、憎んでもいないことが、瞬を つらく 苦しく 悲しくさせていた。 「同じ材料で作られていても、同じものになるとは限らない。城戸の家の庭にあった冬薔薇も、同じ木に生まれたのに、ハサミで切られて花瓶に飾られる花と、死ぬまで元の木に留まっている花があった。どちらが幸福なのかは、僕には わからないけど」 「庭の冬薔薇……?」 表情に出すことや 言葉にすることが少なかったので気付かずにいたが、スキアは 瞬たちが思っていたより はるかに多くのものを見、はるかに多くのことを考えていたらしい。 スキアは、瞬の後ろに立つ氷河の姿を認めると、彼に、 「瞬を守ってくれて、ありがとう」 と礼を言った。 スキアには、瞬のベッドに氷河がいたことを 奇異なことと思っている気配はない。 というより、スキアは、恋を知らず、性愛的なものを 微妙に誤解しているようだった。 「あの時は、ごめんなさい。クローンじゃない人間は、二人の人間が交わって子供を生むのだと、ヒュプノスから聞いたことがあったから、誰かと ちゃんとした命を作ったら、僕は その子供にとって存在する意味のある何者かになれるんじゃないかと思ったの」 「は……?」 自他の区別がつかず、自己が形成できていない赤ん坊は 口にすることのない『ありがとう』と『ごめんなさい』。 スキアの言う“あの時”が、氷河の唇がスキアによって奪われた時のことだと気付くのに、氷河と瞬は 優に1分以上の時間を要した。 あの時 スキアは、氷河と交わって、子供を作ろうとしたのだったらしい。 “いい奴”でも“悪い奴”でもないスキアは、何者かになろうとして、いつも必死だったのだ。 必死に もがいて――少なくともスキアは、悪い奴には ならなかった。 「……瞬。僕は、あなたを憎めたらよかったのかな? でも、あなたは 僕に優しくしてくれた。あなたは 僕のお母さんで、お父さんで――僕を生んでくれた人だ。僕がなりたかった人、僕の憧れの人、僕の理想の人、僕のすべてだった」 スキアの言う通り――憎んでもらえたら、どれほど楽だったことか。 憎むことができない時、人は悲しむしかない。 しかし、だからこそ、憎むことをしない人間は 幸福になることもできるはず。 だというのに、スキアは、幸福を知らないまま 死んでいくのだ。 瞬の瞳には、涙が盛り上がってきた。 瞬の瞳から あふれ出た涙の滴が、スキアの頬に落ちる。 「なみだ……僕を好きだから……?」 スキアは なぜ、そんな わかりきったことを訊くのか。 「僕は いつだってスキアが好きだったし、いつまでも大好きだよ!」 叱るつもりで告げた瞬の声は、涙のせいで 半ば かすれていた。 それでも ちゃんと、スキアの耳には届いたらしく、彼は嬉しそうに目を細め、僅かに口角を上げた。 「涙ひとつで、自分の無価値や無力が どうでもいいことになって、それまでの つらかったことや悲しかったことが すべて消えて、嬉しくて幸福な気持ちになれるなんて、人間は すごい生き物だ。僕は、僕のために生まれてきた。僕は 生まれてきて よかった」 それは スキアの本心からの言葉なのか、それとも 瞬のために作った言葉なのか。 そのいずれであっても、今 スキアが幸福な人間であることは疑いようのない事実だったろう。 彼は、生まれてきてよかったと思えるほどの生を生きた。 あるいは、生まれてきてよかったと言えるほどの人に会ったのだ。 神の思惑が どうであれ、神の思惑とは無関係に、人は 幸福になることができるのである。 「ありがとう」 それがスキアの最期の言葉だった。 笑顔だった。 瞬は、好きなひとのために幾日も泣き続け、やがて 好きな人たちのために泣くのをやめたのである。 瞬が 幸福でいること。 それが、瞬を憎むことをしなかったスキアの望みだということが、瞬には わかっていたから。 Fin.
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