優れた人間には、その人の命を惜しむ人間が たくさんいるものです。 多くの人に その命を惜しまれる人物を生贄として捧げてこそ、神の心を動かすこともできるのです。 王である氷河が 最高の人と思い、12人の氏族長たちも 氷河の人選を称賛しているのですから、既に 生贄は瞬に決まったようなものです。 (自分が言い出したことだというのに)氷河は その決定を受け入れることができませんでした。 となると、瞬より素晴らしい人を探し出し、その人を生贄にするしかないのですが、氷河には、この世界に 瞬より素晴らしい人がいるとは思えないのです。 なんたるジレンマ! 氷河は今、愛する人を抱きしめることのできないヤマアラシより苦悩していました。 そして、ヤマアラシより不幸でした。 「どこかにいないのか! 瞬より美しくて、瞬より優しくて、瞬より強くて、瞬より賢くて、瞬より清らかで、何か 瞬にはできないような芸のできる奴がっ!」 毎度のことではありましたが、無茶にも ほどがある無茶を言う氷河に、(氷河の元学友、現在は国王補佐官の)星矢と紫龍は呆れ顔。 そして、それ以上に 憂い顔でした。 王の恋が氏族長たちに 筒抜けだということも知らず、反対されることを期待して 瞬を生贄に推挙する――などという馬鹿な真似をするから、こんなことになってしまったのです。 氷河が瞬の名を出さなければ、氏族長たちは 万事に控え目な瞬の存在を思い起こすことをせず、瞬は生贄候補として取り沙汰されることもなかったかもしれないのに。 氏族長たちに 瞬の存在を気付かせてしまった氷河が悪いのです。 気付いてしまったら、瞬が 秀でた力を持つ優れた人間だということは、誰の目にも歴然でした。 悪いのは氷河で、他の誰でもないというのに、当の氷河は自分の愚行を反省することもなく、 「瞬を犠牲にしなければ立ち行かないというのなら、そんな国は滅んでしまえばいい!」 と、王にあるまじき暴言を吐き続けています。 氷河は、自分の愚行を反省してはいないようでしたが、自分の軽率、自分の阿呆振りに腹は立っているのでしょう。 だから、とにかく大声でわめき散らさずにはいられないのでしょう。 瞬だけが、氷河のために笑顔でした。 「氷河、そんな悲しいことを言わないで。僕たちの国は とても貧しいけれど、戦のない平和な国だ。自国の豊かさの使い方を間違えて、武力にものを言わせて 侵略を繰り返し、不幸な人を増やし続けている国なんかより ずっと、僕たちの国は素晴らしいと思う。僕は この国を好きだし、命をかけても この国の平和を守りたいと思っているんだよ」 「瞬……」 「僕に そんな大層な価値があるとは思えないけど、僕に 神への生贄の役目が務まるのなら、僕は、国のため、氷河のために、喜んで神の許に行くよ」 なぜ そうなるのでしょう。 なぜ そんなことになってしまうのか、なぜ 瞬は微笑みさえ浮かべて そんなことを言うのか、氷河は 全く得心できませんでした。 「駄目だっ! おまえを神の許にやったりしたら、おまえは絶対に神に気に入られるに決まっている。おまえを神に取られたら、俺が生きていけない!」 「そんなことないよ」 「そんなことあるんだ! おまえは俺と一緒にいられなくなっても平気なのかっ」 氷河は、本当に思慮の浅い王様です。 一国の王として以前に、一人の人間として 思慮が足りなさすぎ。 瞬に そんなことを訊くなんて、氏族長会で生贄候補に 瞬の名を挙げたことより浅はかです。 しかも、残酷です。 瞬は その瞳を 涙で潤ませました。 「いつまでも一緒にいられたらよかったね。生きて、氷河の側で、この国を治める氷河のお手伝いができたら嬉しかったけど……。そうして 僕たちの国を幸福な国にするのが、僕の夢だったんだけど……」 「……」 瞬はもう、自分の夢と命とを諦めているようでした。 とはいえ、自分の命を諦めたからといって、その人から未練や心配事が すべて消えてしまうとは限りません。 自分の命には諦めがついても、瞬の中には 心配事が山積していたのです。 「生贄を選んで神に捧げるのが、氷河の仕事だ。僕は、僕が生贄に選ばれたなら、国と氷河のために、何としても 生贄としての務めを果たす。氷河と僕が それぞれの務めを果たしたら、きっと 氷河は 自分の務めを全うしたことに傷付いて、これまでのように優しいだけの王様ではいられなくなると思うの。その時に、氷河を慰めて励まして支えてあげてね、星矢、紫龍」 「瞬……」 瞬に そんなことを言われても、星矢と紫龍には何もできません。 瞬を失って悲しんでいる氷河を慰められるのは、瞬だけです。 瞬を失って ぽっかり空いた氷河の心の穴を埋めることができるのも、瞬一人。 瞬を失って 何もかもが どうでもよくなってしまった氷河は、けれど、それから最低でも12年間は 国の王であり続けなければなりません。 北の国の王は不死なのですから。 何もかもが どうでもよくなってしまった王が治める国が 幸福な国でいられるでしょうか。 “貧しくても平和な国”でいることさえできないのではないかと、星矢と紫龍は思いました。 彼等は今、愛する祖国の未来に、暗く不幸な影をしか見い出せなくなっていました。 北の国と氷河の向後を 瞬に託されて初めて、故国の未来に不吉の予感をしか感じられなくなったのは、星矢と紫龍だけではありませんでした。 北の国の王が 生贄の儀式の後で 立ち直ることをしない可能性に思い至って――国の王である氷河自身が、そして、氷河の慰撫を仲間たちに依頼した瞬までが――ぞっとしてしまったのです。 瞬は、氷河には立ち直る力があると信じていました。 確かに、氷河には その力があるでしょう。 氷河が瞬を失った喪失感から立ち直れないということはありません。 立ち直ろうと思えば、氷河は どんな喪失感からも どんな悲しみからも 立ち直れるのです。 問題は、氷河が立ち直ろうとしない時でした。 立ち直る力はあるのに、その力を駆使しない時。 氷河なら、それが あり得ました。 氷河は いつ いかなる時も 愛に生きている男でしたから、愛を向ける相手がいないと、何をする気も起きなくなってしまうのです。 それから3日後、氏族長会で 氷河の推挙した瞬の生贄が了承されてしまいました。 最悪の事態を回避する術はないものかと、氷河たちが、これまで足を踏み入れたことのなかった資料室で、過去の失敗と成功の例を調べ始めたのは、まさに この日のことです。 |