瞬は、何と言ったのだろう。
瞬は、何を言っているのか。
“少し足りない”上に、体力も運動能力もない みそっかす。兄に庇われ守られ、群れの中に紛れることで、かろうじて生き延びることができているメダカのような存在であるところの瞬が、瞬より年上で、群れの力に頼って生き延びることを潔しとせず 孤高を保っている一匹狼を守るつもりでいるというのか。
“少し足りない”どころか、“全く足りない”。
氷河は、瞬を怒鳴りつけた。

「なぜ、俺がおまえに守られなきゃならないんだ! まるで、俺が おまえより弱いみたいじゃないか!」
「うん……。氷河は すごく寂しそうで、一人ぽっちで、弱そうに見えるよ」
「なにっ」
氷河には それは、『僕が氷河を守ってあげる』より はるかに衝撃的なフレーズだったのである――『弱そうに見える』。
そんなことがあるだろうか。あっていいものだろうか。
他の誰かなら まだしも、城戸邸で いちばんのみそっかすの瞬の目に、自分が弱そうに見えるなどということが。
あまりのことに、氷河は、瞬の主張を一蹴することはおろか、一笑に付す素振りを見せることすらできなかったのである。

そんなふうに、氷河の心に尋常でないダメージを与えておきながら、瞬は 至って能天気である。
つい数分前には、氷河に『友だちじゃない』と言われただけで涙ぐんでいたのに、瞬は いつのまにか、頭だけでなく表情までが お花畑のように明るくなっていた。
「でも、大丈夫。僕が氷河を守ってあげるから、安心して。誰かが氷河をいじめたら、僕が“なでなで”と“痛いの痛いの飛んでけ”をしてあげる。僕、兄さんにそうしてもらうと、痛くも悲しくもなくなるんだよ」

“少し足りない”このメダカは、何を言っているんだ! と、氷河は思った。
言いたいことは たくさんあるのに、怒りのために まともに声を作ることができない。
酸素不足の金魚のように、口をぱくぱくさせるので精一杯である。
そんな氷河の様子を見て、それまで傍観者に徹していた星矢は、派手に破顔して呵々大笑。
その隣りで、紫龍は、いかにも笑いを噛み殺し損ねたと言わんばかりの苦笑を、顔に貼りつけていた。
一輝だけが、瞬に弱い者扱いされてしまった氷河を笑うことなく、(まなじり)を吊り上げて、険しい表情を浮かべていた。

一輝が笑っていないことは、今の氷河には、むしろ救いだったかもしれない。
一輝の殺気立った顔つきのおかげで、氷河は瞬への反撃に及ぶことができたようなものだった。
「おまえは どこまで馬鹿なんだ! 利口な人間は 得にならないことはしないんだ。得にならないことをしたって、何にもならないんだから!」
“弱い者”に見えないように、意識して居丈高に、可能な限り 高飛車に、氷河は怒鳴ったつもりだった。
だが 瞬は、既に氷河が全く恐くなくなってしまったらしい。
決して反抗的ではなく、相手の意見を丁重に伺う口調なのだが、瞬は臆することなく、氷河に問い返してきた。

「得にならないと、氷河は人に優しくしないの? 氷河が好きなのは、得になる人だけ?」
「俺はみんな嫌いだ」
「得にならないから、みんな嫌いなの? 氷河には 好きな人は一人もいないの?」
「マーマは好きだ」
「氷河のマーマは、氷河が好き?」
「当たりまえだろ」
「氷河のマーマは、得になるから、氷河を好きになったの?」
「なに……?」

そんなことを、氷河は これまで ただの一度も考えたことがなかった。
あくまで、相手の意見を伺う穏やかな口調で、瞬の声には険もないのに、それは鋭い反撃だった。そして、それは、氷河には、この上なく苦しく悲しい質問だったのである。
氷河は、母が“肉親だから仕方なく”自分を愛していたのだとは思いたくなかった。
彼女の美しく優しい眼差し。
氷河を見詰める、愛が あふれているような瞳。
あの優しさ温かさは、断じて、“仕方なく”作ったものではなかった――と思う。
彼女にとって、彼女の息子は“得にならない”人間の最たるものだったというのに。

一輝は、『弟でなくても瞬を守る』と言っていた。
『弟でも、気に入らない奴だったら守らない』と。
得にもならない みそっかすの弟を庇い守る一輝は 気に入らないのに、マーマも一輝と同じであってくれればいいと思う。
“肉親だから、仕方なく”ではなく、“そうしたいから そうした”――彼女は、彼女の息子を愛したいから愛したのであってほしい。
氷河は、心から そうであることを願った。
自身の心の安寧のためではなく、彼女の幸福のために。

「俺に優しくしたって 何の得もないのに、マーマは俺に優しくしてくれた。俺のこと、大好きって言ってくれた……」
氷河は、それ以上 瞬に抵抗し続けることはできなかった。
できるわけがない。
瞬の考えを間違っていると言い張れば、それは マーマが馬鹿だったと言い張るのと同じ。
彼女の愛が、愚者の産物だったことになってしまう。
彼女の愛が貶められてしまう。
氷河には、それは、受け入れがたいことだった。
氷河が婉曲的に降参の意を示すと、瞬は 嬉しそうに温かい笑みを浮かべた。

「氷河のマーマもそうだったんだね。僕の兄さんもそうなの。だから、僕も、得がなくても氷河が好き」
「え……」
マーマのことを思っていたはずだったのに――瞬の その言葉に、氷河の心臓は大きく跳ね上がった。
心臓が、通常の3倍の量の血液を拍出する。
氷河は、一瞬、マーマのことを忘れた。

初めて、マーマ以外の人に『好き』と言われた。
誰かに『好き』と言ってもらえることが、なぜ こんなに嬉しいのか。
誰かに『好き』と言ってもらえることが、こんなに嬉しいことだったとは――。

ろくに話をしたこともない相手を すぐに友だち認定する瞬の『好き』に、深い意味があるとは思えない。
浮かれるな、期待するな、身勝手な夢を見るな! と、瞬に『好き』と言われて胸を高鳴らせている自分に、氷河は自制を促したのである。
人が人を、そんなにも簡単に、本当に好きになることなどあるわけがない――と。

だが、氷河を戒めた氷河自身が、『本当にそうだろうか』と氷河に反論してきた。
瞬は、“足りなく”などない。
世界を 捻じ曲がった目で見ないだけで、へたをすると瞬は、利口ぶっている自分より 真っすぐ深く 物事を見、考えている。
瞬なら、ろくに話をしたこともない相手を マーマと同じくらい好きになってくれることもあるかもしれない。
瞬の瞳は、マーマのように優しく温かい。
身勝手な夢を見るなと戒めてくる自分(氷河)に、氷河は、『瞬は特別だ』と言い返した。
瞬は 損得勘定で動く卑俗な輩とは違う。瞬は特別な存在なのだ――と。

「俺を好き……? マーマみたいに?」
今 一輝の顔が どんなことになっているのか、おおよそ 察しはついていたのだが、氷河は瞬に尋ねずにはいられなかったのである。
一輝が 噴火中の火山のように熱い怒りのマグマを生んでいるようだったが、それは氷河の視界の外でのこと。
氷河の視界の中心には 瞬の可愛らしい顔と綺麗な瞳があり、瞬の かもし出す温かい空気は、一輝が噴出させている怒りの火砕流を いとも たやすく撥ね返し、氷河の側に寄せつけなかった。
「氷河のマーマも そうだったんでしょう? 得になるからじゃなく、氷河を好きだったから、氷河を好きだったんだよね?」
「うん」
「じゃあ、僕と僕のマーマは おんなじだね」

瞬は、マーマのように不思議に淡く笑って頷いた。
その瞳には、優しい温かさが たたえられている。
顔立ちは マーマに似てはいないのに、瞬の瞳は マーマのそれと同じように、無限の温かさと優しさをたたえていた。
今でも マーマが世界一美しい人だと思っているが、瞬も同じくらい綺麗で、世界一可愛いと思う。
マーマが沈んでいった氷の海の冷たさも、怒りの溶岩を噴き出しているオレンジ色の火山の噴火口の灼熱も、人の心を優しく包み込む春の暖かさには敵わないのだということを、氷河は その時 知ったのだった。






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