愛の報い






その客は、見るからにホテルバー向きの風体の男だった。
街場のバーに入るなら銀座一択。
どう考えても、押上のスカイツリーの足元にある、オープンして数年のバーに入るような男ではない。
歳は40手前。もしかしたら過ぎているかもしれない。
顔の造作は上の中。日本国内でなら十分にイケメンで通る。
整ってはいるが、少々 癖が強い。
滅多に見ない黒灰色のツイードのスーツは、おそらく父か それに準ずる目上の男性から受け継いだものの仕立て直し。
時計も靴もオーソドックスなハイブランド。
留学したことがあるなら、留学先はカソリック国ではなくプロテスタント国。
さほど古くない――せいぜい20世紀に築かれた それなりの規模の門閥の、主流ではなく傍流の一人。
才に恵まれ 精力的でもあるが、野心と上昇志向は それ以上。

店のドアを開け、カウンター席に着くまでの10秒前後。
その10秒前後の観察で 氷河にわかったのは、その程度だった。
それだけの観察を、アテナの聖闘士の視力と状況判断力を持つ氷河は10秒で終えたが、一般人の彼は そうはいかなかったらしい。
初めて足を踏み入れたバー。
そのバーを一人でまわしているバーテンダーを、最初は 遠慮がちに ちらりと一瞥。その後 胆が据わったのか、正面から じろじろ観察。次に 僅かに首をかしげて斜めから しみじみ眺め、最後に視線を氷河の上に据えたまま、彼は薄く笑った。

「何か」
「いや、失礼。キール・ロワイヤルを、シャンパンではなく、スパークリングワインで頼む。君が あまりに聞いていた通りの様子をしているので、感動してしまった。“目を引く美貌、刃物のように鋭い眼差しの持ち主。一見した限りでは、破滅型、刹那主義。前後左右上中下、どの視点から見ても、全く家庭的には見えない”」
それが、彼の“聞いていた”氷河に関する情報のようだった。

標準より早口。
頭の回転は速いのだろうが、協調性に欠け、少々 独りよがり。
客の人物データを 脳内の記録フォルダに追加登録しながら、氷河は 意識して ゆっくりした口調で、
「誰が そんな話を」
と、客に問うた。

蘭子だろうか。
だが、蘭子がちょっかいを出す相手としては、彼は今ひとつ面白味に欠ける。
一般人としては個性的と言えなくもないが、彼女の周辺の男たちの中に入れば、隅に押しやられるような男。
蘭子が目を留めるほどの何かを持っている男には、到底 見えなかったのである。氷河には、その客が。

いわゆる、エグゼクティブ。もしくは、その予備軍。
戦うためではなく、特定のスポーツで記録を打ち立てるためでもなく、『自己制御力があることを証明し、社会的信用を維持する』という目的のために、適度に鍛えられた肉体。
おそらく 彼を“面白味に欠ける人物”と評するのは、この国では少数派である。
――ということは、氷河にも ちゃんと わかっていた。

「風の噂で」
「その風の生まれた場所は」
「それは 君自身としか。さぞや 女性にもてるだろう」
「別に」
「やはり」
噂の出どころを ごまかされ、勝手に話題を変えられ、あげく 誤解までされるのは、極めて不愉快である。
氷河のぶっきらぼうな答えを、『女性にもてているのに 謙遜しているのだ』と 勝手に決めつけてくれた客に、氷河は 意識して抑揚を排除した声で、
「それは誤解だ」
と告げた。
そうすることで、氷河は自分の不快の念を客に知らせたのである。
(言うまでもなく、それは 接客業に携わっている人間の振舞いとしては全く適切ではない)

「女というのは、基本的に安全志向、安定志向。見るからに根無し草、カタギでもなく家庭的でもない俺は――」
「独身?」
「……」
話の腰を折られた氷河は、不快になるより先に、自分が 初見の客に対して 余計なことを語り過ぎてしまったことに気付いた。
プライベートを勘繰られるのは好きではないのに、自分から べらべらと それを披露して どうするのか。
客の質問に、氷河は答えなかった。
それきり、氷河は口を閉ざした。



その後、その客が再び 氷河の店に来ることはなかったので、氷河は そのまま彼のことを忘れてしまったのである。
彼の来店の翌日、
「夕べ、変な客が来た」
と、食卓の話題にしただけで。
「変な客?」
「誰かが 俺の身辺調査でもしているんだろうか。俺としたことが うまく乗せられて、女にもてないことや 家庭的でないことを、自分から白状してしまった」
「『娘が可愛くて可愛くて、親馬鹿をしています』って、その人に教えてあげればよかったのに」
「バーの客が、家飲みせず バーに来るのは、日常から距離を置くためだぞ。バーテンダーが 客にプライベートを話せるものか。客が自発的に話す個人的な愚痴に相槌を打ってやるのが せいぜいだ」

「思い切り娘自慢のできる お仕事があればいいのにね」
瞬が そう言ってくれたので、氷河は瞬相手に娘自慢を始め、ナターシャは パパに負けじと パパ自慢を開始。
父娘揃って 瞬に笑われ、それきりだったのだ。その奇妙な客については。






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