「詰まるところ、俺はコブツキの甲斐性無しだからな……」
かてて加えて、幼い頃からの長い馴染み、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士。
比喩ではなく実際に 目を見れば わかる、見なくても わかる、離れていても わかり合える二人。
言葉を交わさなくても わかってしまうので、気の利いた言葉を口にする必要もない。
恋のための時間が制限されているので、二人の都合が合致した時に、面倒な駆け引き抜きで行為に突入。
それをナターシャに気取られぬようにしなければならないという緊張感が なかなかスリリングで、異様に燃える。
場所と時刻を調整し、約束し、(主に瞬の)仕事の都合で反故になることも多かった 同居開始以前に比べると、情交の頻度だけは増えていたのが、かえってまずかったのかもしれない。
瞬はいつも心で生きている人間だというのに。

瞬は、今朝は、いつも通りに病院に向かった。
「ナターシャちゃん、いい子にしててね。氷河が うっかりさんなことしないように、しっかり監督しててちょうだい」
ナターシャが氷河の目が届かないところに行かないよう注意をして、いつも通り 優しく清らか、氷河に隠し事など一つもない清廉潔白の(てい)で。

実際のところ、瞬は、第三者の目で 客観的に見れば、父子家庭を営んでいる友人の子育てに過剰なほど力を貸している奇特な人間で、瞬が誰とどんな交流を持ったとしても、氷河に文句を言う権利はないのだ。
リビングルームの三人掛けソファの真ん中に、完全に脱力した身体を預け、氷河は天井を仰いで溜め息をついた。

瞬の夢は、世界の平和。
幼い頃から、愛だの恋だのは、世界の平和あってこそ。まして 自分の幸福など二の次三の次。
それが、人間としての、アテナの聖闘士としての、瞬のスタンスだった。
瞬が 同性である氷河の求愛を受け入れてくれたのも、もちろん、白鳥座の聖闘士の強行と言っていいほど猛烈なアプローチに音を上げたせいもあるだろうが、氷河が同性で、仲間で、アテナの聖闘士であることが大きかったに違いないと、氷河は思っていた。
同性の仲間がパートナーなら、世界の平和を守るための戦いの枷になるようなもの――すなわち、家庭や子供――を背負わなくて済む。
世界の平和を守ること、そのための戦いがプライオリティ ナンバー1というスタンスを維持することができるのだ。恋の相手が、同性の仲間なら。

それが、今ではどうだろう。
瞬は 小学校にも入っていない小さな女の子のマーマで、何をするにも最初に考えるべきことは ナターシャの身の保全。
バトルはもちろん、ちょっとした調査のための遠出の際にすら、今では まず第一にナターシャを預ける場所と人を確保してからでなければ 取りかかれないのだ。
その上、瞬を幼い少女のマーマにした当人は、瞬の如才無さに甘え、自分より瞬の方が適任だと無責任なことを言い、ナターシャの躾や世話は ほとんど瞬に任せて、自身はナターシャの遊び相手を務めるのみ。

氷河より よほど真面目にアテナの聖闘士の務めを果たしながら医師免許を取得するような瞬には、水瓶座の聖闘士は無能な怠け者にしか見えないのかもしれない。
どう考えても、瞬が 氷河以外の誰かに心を移すのは 当然のことだという結論にしか至れない。
今まで そうでなかったのが不思議なくらい、それは当然のことだった。
「ナターシャ、おいで」
氷河は三人掛けのソファの右側の空きスペースに、ナターシャを手招いた。
パパの横に ぽんと飛び乗ってきたナターシャの頭に、氷河が手を載せる。

「ナターシャ。ナターシャは、瞬がいなくなっても、俺がいれば平気だな?」
「エ?」
ソファから立ち上がる気配のない氷河を、今日は公園に行かないのかと訝っていたらしいナターシャは、パパの唐突な問い掛けの意味を すぐには理解できなかったようだった。
頭の回転が速く、勘のいいナターシャにも 理解が追いつかないほど、それは想定外のIF文だったのだろう。
まして、氷河の問い方は、『平気か?』ではなく『平気だな?』。
全く平気でないナターシャが混乱するのは、これまた当然のことだった。

「瞬が俺たちの家に来る前に戻るだけだ」
「パパ、どーして? マーマもいた方が 断然いいよ」
「それはそうだが……。瞬には、どうしても叶えたい大切な夢があるんだ」
「マーマの夢?」
「ああ。俺やナターシャは、夢を叶えたい瞬の邪魔になる。それに……もしかしたら、瞬には 俺たちより一緒にいたい人がいるのかもしれないんだ」
「……」

ナターシャは、パパとナターシャといる時のマーマしか知らない。
どんなに厳しいことを言っても、結局 パパの言うことをきいてしまうマーマしか知らない。
ナターシャは、星矢や紫龍の語るマーマを 真実のマーマだと思っていた。
優しくて強くて、どれだけ迷惑をかけられても、決して パパを見捨てないマーマ。
『どこがいいのか わかんないけど、瞬が 氷河を見捨てられないのは、やっぱり 瞬が氷河を好きだからなんだろーなー』なマーマ。
そして、パパが そんなマーマを“マーマの好き”の5倍くらい大好きで、いつも どんなことででもマーマに支えられていることも、ナターシャは知っていた。

「俺は ずっとナターシャと一緒だ」
「デモ……」
デモ、“パパが”寂しいに決まっている。
パパが寂しいなら、ナターシャも寂しくなるに決まっていた。
「パパとマーマは 子供の頃からずっと一緒だったんでショ? だったら、これからもずっと一緒の方がいいでショ? どうして、パパとマーマが一緒にいられなくなるノ?」
「そうだな。ずっと一緒にいられたら よかったんだが……。以前とは事情が変わって、俺は今では子持ち男だし――」
「エ?」
「あ、いや、ナターシャがいるから、瞬がいなくても俺は平気だということだ」
「……」

自らの失言を、氷河は すぐに言い繕ったのだが、ナターシャの疑いの表情は消えなかった。
ナターシャは、時折“子供”のカテゴリーに分類することを ためらうほど察しのいいことがあった。
それとも、子供というものは 実は皆 そうなのか。
ナターシャは、氷河の言い繕いを 嘘だと感じているようだった。
幼い少女の、考え深げな瞳、眼差し。

「ナターシャは何も心配しなくていいんだ」
氷河は愛娘の頭を撫でて、彼女の心を慰撫してやることしかできなかった。






【next】