「瞬ーっ !! 」
動転しすぎていると、自分が光速移動できることさえ忘れる。
氷河は、エレベーターではなく階段を 自分の足で駆け上がり、瞬の部屋のインタフォンTVモニターに向かって雄叫びを上げた。
「氷河? どうしたの、そんな大声で。ナターシャちゃんは?」
部屋のキーもパスワードも知っているのに 入室せず、あえて 外で怒鳴り声をあげている氷河の行動を理解できず、理解できないながら、理解できないまま、瞬は家のドアを開けた。
氷河が、手でも足でもなく声で、瞬の家に押し入ってくる。

「ナターシャが家出したっ!」
それは瞬の質問への答えではなく、氷河の一方的な報告だった。
怒鳴りながら、氷河が 1枚の画用紙を瞬の前に指し示す。
B4サイズの画用紙には、青色のクレヨンで書かれた、
『マーマ、パパとずっといっしょにいてあげてください。ナターシャは たびにでます』
の文字。
最後の『でます』が 紙から はみ出しそうになったのか、極端に小さく書かれている。

「な……何なの、これは」
瞬は 瞬らしくない間抜けさで、瞬らしくない呟きを呟いてしまったのである。
ナターシャが家出して、これが残されていたというのなら、わざわざ尋ねるまでもなく、これは書き置きに決まっていた。
「おまえが もうナターシャのマーマでいられなくなると、ナターシャに知らせてしまったんだ。俺とナターシャは、おまえの夢の実現の障害でしかなく、おまえには新しい恋人ができたと」

「はあ !? 」
瞬らしくない間の抜けた声が続く。
だが、今の氷河には、そんな瞬をからかう余裕もなかった。
「俺が馬鹿だったんだ。おまえに新しい恋人ができたなら、コブつきの俺は身を引くのが 当然で、見苦しく おまえにすがるべきではないと思った。どんなに 無様でも、どんなに みっともなくても、俺は ナターシャと俺自身のために、俺とナターシャの側にいてくれと、おまえに頼むべきだった。すまんっ、ナターシャ !! 」
「氷河……」

ナターシャへの詫びを、ここでされても困る。
そして 瞬は、氷河が何を言っているのか、やはり全く わからないままでいたのである。
そもそも 瞬には、新しい恋人などできていなかったし、ナターシャのマーマをやめるつもりもなかったから。
玄関先で騒いでいる氷河の大声を聞きつけて、客間から、松山夫妻が顔を出してきた。

「瞬先生、どうかなさったんですか? あ、もしかしたら、そちらが?」
「ま……松山さん、すみません。あ、はい。これが、お二人に会わせようと思っていた、自称クールの親馬鹿バーテンダーの氷河なんですが。何か誤解があったようで、ナターシャちゃ……僕たちの娘が家出してしまったようなんです――」
「家出 !? でも、ナターシャちゃんって、確かまだ……」
「4歳です」
「4つで家出 !? 」
混乱から抜け出せずに、瞬が 松山夫人にナターシャの書き置きを手渡すと、額を突き合わせるようにして それを読んだ夫妻は、二人揃って目を剥いて、ぱちぱちと幾度も瞬きを繰り返した。

いちばん最初に我にかえったのは、一見 キャリアウーマン風の松山夫人だった。
「ナターシャちゃんが家を出たのは、いつ頃なんです」
「昼食は一緒にとったから、4時間ほど前――か」
「ナターシャちゃんは、お金を持っているんですか」
「いえ。お小使いは まだあげてませんし、お年玉は 僕が預かっているので……」
「では、電車やバスで移動することはできないんですね。タクシーも、まさか4つの女の子を一人で乗せるようなことはしないでしょうから――」

そこまで言われて やっと、氷河たちにも、ナターシャのパパとマーマのすべきことが見えてくる。
子供の足とて、おそらく このマンションから徒歩10キロ圏内にいるだろうナターシャを探し出すこと。
為すべきことがわかれば、氷河と瞬は行動に移るのは早かった。
「すみません。僕たち、これから娘を探しに行きます。娘と会うのは 後日ということに――」
「我々も一緒に探しますよ」
今日もツイード着用の松山氏が、家出人捜索への協力を申し出る。
ナターシャの身の安全を最優先して、瞬は松山夫妻の申し出に甘えることにしたのである。
「ありがとうございます。娘は、長い髪をツインテールにしていて、コートはアイボリー、スカートは――」
「赤。マフラーは緑、タイツは黒だ」

「わかりました。すぐ、手分けして探しましょう」
このツイード男は、瞬の浮気相手。
アクエリアスの氷河から恋人を奪おうとしている男。のはずである。
「遠くに行ってなくても、外は寒いですよ。どこか屋内にいるといいんですけど……」
このキャリアウーマン崩れは、瞬の浮気相手その2。
ナターシャからマーマを奪おうとしている女。のはずである。
が、もしかしたら違うのだろうか。
どう見ても、この二人は夫婦だった。

氷河は、まるで 事情がわかっていなかった。
同様に、瞬もまた、氷河とナターシャの誤解の訳が わかっていなかった。
しかし、今は、謎と誤解の解明よりナターシャを探すことの方が先。
四人の大人たちは1階のエントランスに下り、そこから門に向かって歩きながら、光が丘公園内を探す者、駅への道を辿る者、交番に向かう者――と役割を決め、ナターシャ捜索に取りかかったのである。
より正確に言うならば、“取りかかった”ではなく“取りかかろうとした”。

「パパ……マーマ……」
大人たちがマンションの門前での道を 左右に分かれようとした時、門脇の 花の落ちたアベリアの植え込みの陰から、氷河と瞬を呼ぶナターシャの声が聞こえてきたのである。
「ナターシャちゃん……?」
「パパ、マーマ……。ナターシャ、一人で ここから お外に出ちゃ いけないの……」
「ナターシャ……」

4時間も前に家出したナターシャが、未だマンションの敷地内にいる訳。
旅に出たナターシャは、マーマの言うことを よくきくいい子だったために、『一人でマンションの敷地の外に出ちゃ駄目だよ』というマーマの言いつけを守って、そこから先に進むことができなかったらしい。
外気温は、摂氏5度以下。
4時間近く木の陰にしゃがみ込んでいたのだろうナターシャの頬は、まるで 白い絵の具を落としたように血の気が失せていた。

瞬は すぐさま ナターシャの側に駆け寄り、抱き上げ、抱きしめ、松山夫妻には気付かれぬよう、冷え切ったナターシャの身体を温めたのである。
水瓶座の黄金聖闘士の凍気さえ消滅させる瞬の小宇宙の威力は覿面。
ナターシャの冷え切っていた身体は――身体だけは――すぐに 子供らしい体温の高さを取り戻した。






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