そんなふうに愛によって治められているピュシスに、世界創造以来の大事件が起きたのは――それも神の意思だったのでしょうか。
だとしたら、その神は、愛の神ではなかったでしょう。

異世界との出会い。
二つの世界は、本来は決して出会うことのない世界だったのですが、時空の乱れによって、二つの世界は出会ってしまったのです。
異世界の住人たちの来訪を、愛の治国ピュシスは 好意で受け入れました。
問題は、ピュシスと異世界の価値観の違い、法律の違い、神の違い。
異世界人たちは、“愛”ではなく“物”に 最高の価値を置く人たちだったのです。
彼等にとって、形も質量も持っていない“愛”は、“無”でしかなかったのです。

彼等は、ピュシスを治めている“愛”の存在を認めず、ピュシスという“物”を支配しようとしました。
ピュシスにある“物”――すなわち、空間の一部を占め、有限の質量を持つもの――をすべて、ピュシスの民から奪い取り、我が物にしようとしたのです。
ピュシスの大部分の人々は、異世界人たちの暴力に抵抗することもできませんでした。
撃退なんて、なおさら無理。

異世界人たちは、ピュシスの有力者たちの城を次々に落とし、その命を情け容赦なく奪いました。
異世界人たちの目には、ピュシスの人間たちが 自分たちと同じ人間に見えていなかったのかもしれません。
インカ帝国を滅ぼしたスペイン人 フランシスコ・ピサロは、強力な武器を持たず、嘘をつくことのできないインディオたちを、自分と同じ人間と認識していたでしょうか。
愛のみに価値を置いて生きているピュシスの人々を、彼等は いとも気軽に殺してしまいました。

対して、ピュシスの国民は、その身分が高ければ高いほど 愛の力が強いために、異国人を倒すことはできません。
異世界人たちの あまりに無慈悲で乱暴な振舞いに、愛の心を忘れてしまっても、だから反撃できるかというと、それはピュシスの神が許してくれないのです。
ピュシスの民は、異世界人に対して憎しみの気持ちを抱いた途端に、天なる愛の意思によって、与えられていた強さと力を奪われてしまうのです。
そうして、高い身分にあった人たちは、無力で貧しく不幸で寂しい最下層民に墜ちていくことになるのでした。

このままでは ピュシスの国が滅びるのは時間の問題でした。
異世界人に対抗できるピュシス人は 一人もいないのですから、このまま手をこまねいていれば、当然 ピュシスは滅びるでしょう。
滅ぶしかありません。
けれど、この美しい国、この美しい世界を滅ぼすわけにはいきません。

ピュシスの国を 救わなければならない。
ピュシスの国は 永遠に存在し続けなければならないのです。
愛なき世界は 幸福なき世界でしょう。
そんな世界で人が生きていて何になるでしょう。
ピュシスは、守られなければなりません。
でも、どうやって?

ピュシスを救うために、異世界人と戦う決意をしたのは、瞬という名の十代の少年でした。
ピュシスで最も高い地位を与えられている人間。
天なる愛の意思に 最も愛されている人間。
その心の清らかさを この世界第一と認められ、その姿は愛の具現と言われる人。
瞬は、愛の治国ピュシスを守るために、自らの愛の心を消し去る決意をしたのです。
そうしなければ、ピュシスは滅びるしかないのだということが、誰よりも愛の力に恵まれている瞬には わかっていましたから。
瞬は、愛の力の正しい使い方を理解していました。
誰より正しく理解していました。
究極の愛。それは、他者のために自分を犠牲にすることなのです。

愛の心を消し去れば、ピュシスの民でも戦うことができるようになるのなら、愛の力を軽んじる最下層の者たちが戦えばいいではないかと、皆さんは思うでしょう?
それは そうです。
それは その通りなのですが、ピュシスの最下層の者たちは、そもそも 自分以外の人間への愛がありませんから、自分以外の人間のために我が身を犠牲にすることなど考えもしないのです。
彼等は、異世界人たちがピュシスに侵攻してきた際、我が身可愛さに 我先にと逃げてしまいました。
どこに逃げていったのか、どこに逃げるところがあったのか、それは誰も知りません。
そんな場所はありませんから――おそらく、異世界人に真っ先に命を奪われたピュシスの民は 最下層の者たちだったことでしょう。

そんな最下層民たちと対極の場所にいる瞬。
ピュシスで最も高い地位を与えられている瞬は、ピュシスの人々を、ピュシスの国を、世界のすべてを、心から愛していました。
自分自身より愛していました。
ですから、自分の愛の心を消し去って、自分が異世界人に立ち向かおうという瞬の決意は、ある意味 とても自然なことだったのです。

愛の心を消し去ることを決意した瞬に、大反対したのは氷河でした。
氷河は、瞬の愛の力に惹かれて、その優しさ、その清らかさに惹かれて、自分の愛のすべてを瞬に捧げている青年でした。
氷河は、瞬を愛する心と力は強いのですが、それは“恋”と呼ばれる種類の愛で、時に利己的で他者をないがしろにするきらいがあり、そのため、氷河の身分は あまり高くはありません。
氷河は、瞬に与えられている白亜の城館で、瞬の従者を務めていました。

二人は、身分が全く違うのですが、瞬はすべてを愛している人間ですから、氷河に(氷河にも)とても優しく、そして もちろん氷河を愛していました。
その愛は、氷河が瞬に寄せる愛とは少し内容が違っていましたけれどね。
もちろん、瞬が氷河に向ける愛の方が、氷河が瞬に向ける愛より、上等で強く深く美しいのです。
ピュシスの最高の身分は、そういう者にのみ与えられるのですから。

ピュシスを守るために愛の心を消し去るとことを決意した瞬に、氷河が大反対したのは当たりまえです。
愛の心だけでできているような瞬。
その瞬から愛の心を消し去ったら、瞬に いったい何が残るのでしょう。
愛の心を消し去った瞬がどんなふうになるのかが、氷河にはわかりませんでした。
想像することもできませんでした。
愛の心を持たなくなった瞬を、自分が愛していられるのかどうかも、氷河にはわからなかったのです。

「なら、俺が、愛の心を捨てて戦う」
そんなことをしても 何の意味もないと知りながら、それでも 氷河は瞬に訴えました。
そんなことをしても意味はないのです。
ピュシスで最高の身分を与えられている瞬は、言ってみれば百獣の王ライオンで、身分の低い氷河は小さなネズミのようなものです。
愛の心を捨てる以前に、持っている力が桁違いに違うのです。
瞬の愛の力は、星雲を作り出すことさえできましたが、氷河の愛の力は、瞬に捧げるための花を生きたまま氷漬けにできるくらいのものでした。

低い身分の者が 愛の心を消し去って冷酷な戦士として戦おうとしても無意味。
小さなネズミが剣を取って戦っても、俊敏で狡猾なキツネは怯みもしないに決まっています。
けれど、ライオンが相手だったら どうでしょう。
キツネは ひとたまりもありません。
最高の愛の力を持ち、ピュシスの最高の人として生きてきた瞬だから、愛の心を捨てて戦うことに意味があるのです。

「だが、もし、おまえが愛の心を消し去って、異世界人を倒すことができたとしても、その後はどうなる? 異世界人の脅威がなくなり、元の秩序が回復された このピュシスで、愛の心を失ったおまえは、最下層の身分に墜ちることになるだろう」
それが氷河の反対の理由でした。
今、愛の栄光に包まれ、愛の美しさに輝いている瞬が、ピュシスで最も高貴な人間である瞬が、ピュシスの民を救うために愛の心を消し去り、そのために最下層の身分に落とされる。
そんな理不尽なことがあっていいものでしょうか。
氷河は、身分の低い者であるがゆえに、愛ではなく恋に支配されている者であるがゆえに、瞬の不幸や不遇が我慢ならないのです。
けれど、瞬の愛は、世界のすべてに向けられていました。

「僕が愛の心を失っても、生き残ったピュシスの人たちが、愛の力の尊さを重んじるピュシスの国を守り続けてくれれば――氷河たちがピュシスの国を守ってくれれば、僕はそれが嬉しいよ」
「おまえは……!」
瞬はそうかもしれません。
瞬なら そう考えて、たとえ自らが最下層民になっても後悔はないのでしょう。
ですが、氷河は違いました。
氷河は、瞬の幸福だけを願っている人間なのです。

「おまえは間違っている! 愛を忘れて、異世界人と戦い、勝って どうなる !? 愛を忘れて、世界を救って、それでどうなるというんだ!」
「氷河……」
氷河が、氷河自身ではなく 自分の身を案じてくれているのだということは、瞬にもわかっていました。
そんな氷河に、けれど 瞬は、微笑を返すことしかできなかったのです。
「でも、このままでは この国が、僕たちの世界が滅びてしまう。僕は、みんなに生きていてほしい。氷河に生きていてほしい。みんなが死んで世界が亡びるより、誰かが生き残る道を選ぶべきだと、僕は思う」

瞬の決意は固く――その決意は、愛でできているので固く――反対したところで、氷河は止める力を持っていません。
瞬の方が、氷河より ずっと強いのです。
瞬の言う通り、このままでは、瞬も氷河も この世界も、異世界人に滅ぼされてしまうでしょう。
けれど、強大な力を持つ瞬が異世界人を撃退すれば、ピュシスの人々は 生き延びることができます。
瞬自身も――瞬の愛の心は失われたとしても、瞬の命は生きたままで残るのです。

氷河が瞬に折れたのは、どんなことになっても瞬の側にいて、瞬を守り続けることを、瞬に許してもらえたからでした。
氷河には、異世界人との戦いより、その後の瞬の身、瞬の心、瞬の境遇の方が ずっとずっと重要で大切で、何よりも心配なことでした。
戦いの勝敗など、氷河は案じてもいませんでした。

瞬は、異世界人には勝つに違いないのです。
瞬の持つ力は、強大無辺。まさに無限。
瞬は ただ、その愛の力を、人を傷付けたり、人の命を奪ったりすることのために使えないだけなのですから。






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