北の国の神殿で、氷河と瞬は二人でハーデスに呼びかけた。
ハーデスは、初めて、願いを願う者に、その者の死以外の答えを返してくれた。
幾百本もの燭台に火が点され、明るい光に満ちていた神殿の内側が、明るさを受け入れない薄墨色の空気に覆い尽くされる。
罪を犯しても、瞬は、ハーデスが認めるほどに清らかだったのか、あるいは二人が二人だったからなのか。
ともかく、答えは返ってきた。
冥府の王ハーデスは 瞬の肉体に降臨し、望みは何なのかと氷河に問うてきた。

「俺の母を生き返らせてくれ」
氷河が瞬の姿をしたハーデスに そう告げたのは、むしろ、母の命を諦めるためだった。
北の国の王の愚行によって失われた命が すべて蘇るのでなければ、北の国の王の母が蘇ることは許されない。
以前より 少しだけ愚かでなくなっていた氷河には、その理屈がわかっていた。
「それは無理だ」
予想通りの答えが返ってくる。
氷河は、悲しい気持ちで頷いた。

「だが、母に罪はない」
「罪のない者も、いつかは死ぬ」
「不公平だ」
「そうか? そなたに命を奪われた多くの者たちも公平に、“不公平に”死んで 余の国にやってきたが」
声は瞬の声だが、表情や口調は瞬のそれではない。
それでも、瞬の顔をした者に その事実を指摘されるのは、氷河には 苦しいことだった。

「俺が母の代わりに死ぬ。入れ替わりに母を生き返らせてもらうことはできないだろうか」
「そなたの死の時は まだ先だ。実に不公平なことだが、“公平に”そう決まっている」
人間の生と死の、冷酷なまでに厳しい公平と不公平。
瞬の顔をしたハーデスは、温かさも冷たさも感じられない無熱の瞳で、氷河を見詰めている。

「生きている者は、自分の生を生きて、その生の中で、自分の犯した罪や過ちを償わなければならぬ。特に、そなたは」
それは、死で償えるような軽い罪ではないのだろう。
氷河は、きつく唇を噛みしめた。
また、血の味がする。
「この先も そなたの愛した者たちが死ぬことはあるだろう。母を蘇らせたところで、その母は いつかまた死ぬ。そなたは、そのたび、母を生き返らせてくれと、余に願うのか? それとも、今回の死は納得できる死だったから 死んだままにしておいてくれと言うのか? 馬鹿げている」

ハーデスの言う通り、本当に馬鹿げている。
氷河は、胸中で自嘲した。
もう諦めよう――と、氷河は思ったのである。
これでもう、諦められる。自分は生きて償う道を模索するのだ――と。
一生をかけても、所詮 自分一人の一つだけの命、しかも限りある命で、己れの罪を償いきれるものではないだろうが。

そう思いはしたが、他にできることはないのだと自身に言い聞かせ、氷河は覚悟を決めたのである。
だからこそ――。
「だが、まあ……瞬を余にくれるなら、特別の情けをもって、そなたの母を生き返らせてやらぬこともない」
というハーデスの言葉に、氷河は 己れの耳を疑ってしまったのだった。
冥府の王の気まぐれで、そんな無理が通るのなら、なるほど 人の生と死は不公平なものである。
もちろん、その不公平を公平に感じるほど、瞬が価値ある存在なのだということには、氷河も異論はなかったが。

「そんなことができるか! 瞬は俺のために危険を冒して、こんなことまでしてくれたんだ。瞬の命は、瞬のものだ。たとえ冥府の王でも、瞬の命を好き勝手にはさせない!」
ハーデスに好き勝手にさせないために、自分に何ができるのか。
氷河は、それを知らなかったが、それでも氷河はハーデス(瞬の顔をしているハーデス)に向かって怒声をぶつけていった。

ハーデスは本気だったのか。それとも それは冗談にすぎなかったのか。
あるいは、冥府の王 自ら、生死の摂理を乱すわけにはいかなかったのか。
冥府の王は、彼が言い出した提案を 意外にあっさり引き下げた。
「そなたが 瞬より 自分の母を選んだら、そなたの国の民の命をすべて奪ってやろうと思っていた。そなたも、少しはまともな判断ができるようになったようだな」
「……」
いくら瞬の顔をしても、ハーデスの言うことなど、もう 真に受ける気にはなれない。
氷河は、むっとして口を つぐんだ。
ハーデスが素知らぬ顔で(瞬の顔で)言葉を続ける。

「死んだ者は、そなたを恨んではおらぬ。恨んだところで、どうなるものでもない。死んだ者は、その者が生前犯した罪を冥界で償う。そなたを恨んでいるのは、生きている者たちだ。死んだ者たちの家族や友。そなたは、生きている者たちの恨みと悲しみを我が身で受けとめ、生きている者のやり方で その罪を償わなければならぬ」
「……」
瞬の顔なので、真っ当なことを言われると、虚心に聞かずにいられなくなる。
今は ハーデスは 真っ当なことを言っている――ような気がした。

「死んだ者たちは誰も、己れの命を奪った者を恨んではいないと、生き残った肉親たちに知らせてやるがよい。少しは、そなたを恨む心も和らぐだろう。人が人を恨むのは、大抵、仇が憎いからではなく、自分の心を慰めるためだ」
「ならば、知らせぬ方がいい者もいるだろうな。俺を恨み憎む心に支えられ、かろうじて生きている者は相当数いるだろう」
「ほう」
ハーデスは(瞬の顔で)少し感心したような声を洩らした。
「以前より まともな判断ができるようになったではないか。結構。苦しき現世で、生き続けるがよい。そなたの命が終わる、その時まで」
「瞬も一緒に?」

何よりも大事なことだったので、間髪を入れずに ハーデスに確認する。
ハーデスは(瞬の顔で)立腹を隠さずに、
「そうだ」
と答えてきた。
ハーデスは 生と死の公平を守る神として、そう答えざるを得なかったのだろう。
そして、そんな自分に腹が立って、彼は それ以上 氷河の生きている不愉快な地上世界にいたくなかったのかもしれなかった。

次の瞬間、ハーデスの支配から解放された瞬が、氷河の腕の中に飛び込んでくる。
「一緒に生きていこうね」
「瞬……!」
失われた多くの命と、生き返らせることのできなかった母の命を 忘れることはできないし、忘れるつもりもない。
だが、氷河は 瞬に頷き、そして、瞬の身体を強く抱きしめたのである。



氷河は、多くの人間から憎まれ恨まれたが、懸命に罪を償い、彼を憎み恨む者たちと同じほどの数の人間に感謝される者として、彼の生を生きた。
氷河が幸せだったのかどうか、余人には彼の心の中を窺い知ることはできない。
生前、彼の傍らにはいつも 彼が滅ぼした国の巫がいたという記録だけが残っている。






Fin.






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