冥王の指輪






ギリシャでは、冥王の指輪、冥府の指輪。
北欧、ドイツ語圏では、霧の国の人(ニーベルング)の指輪。
英語圏では、支配者の指輪、指輪の王。
呼び名は腐るほどあるが、ただ一つの指輪。
それは、世界の富が眠る地下世界の王の黄金によって作られた指輪だった。

その指輪を所有する者は、世界のすべてを支配する王になることができる。
ただし、その者は、誰を愛することもできず、誰からも愛されることのない呪いを その身に受けなければならない。
その呪いに耐えられる者だけが、地上のすべてを支配できる王となることができる。
それは、そういう指輪だと言われていた。

誰を愛することもできず、誰からも愛されることのない呪いを その身に受けなければならない指輪。
そんな指輪を欲しがる者などいるわけがないと思う人間は、幸福な人間である。
実際には、世界のすべて――愛以外のすべて――を我が物にできる指輪を欲しがる者は多くいた。
愛よりも力を欲する者や 人の生には愛など不要と思う者。
そもそも自分には愛の心などないと思う者。
自分は もう誰も愛することはないと信じてしまった者。
――等々。
氷河も、そんなふうに 愛の力を見くびる者たちの中の一人だった。


北の果て、貧しい浜辺の村。
毎年 課せられる重い税。
民の個々の暮らしを考慮せずに、家々に 割り振られる厳しい労役。
父のない子を産んだ若い娘と その子供に対する、村人たちの侮蔑と冷酷。
どれほど貧しくても、飢えない日はなくとも、“権力者”“支配者”という異人種たちに虐げられても、同胞たる村人たちに侮られ蔑まれても、マーマの優しい眼差しがあれば耐えられる。
そう思っていたのに、彼女の瞼は永遠に閉じられてしまったのだ。

その日、家の中に ついに食べ物がなくなってしまったので、氷河の母は 氷河に食べさせられるものを探して、浜に出たのだった。
まだ浅い春。
北の国の海はまだ凍っていた。
浜に打ち上げられる海草や貝は、既に村の者たちに拾われ尽くしたあとで、浜にあるのは氷と砂と貝殻ばかり。
それでも何かないかと、せめて貝の一つ、海草の一切れを求めて、彼女は凍った海の氷の上を沖に向かって歩き出した。
そうして、彼女は、春だから融けかかっていた氷を踏み抜き、春なのに氷でできたように冷たい水の中に落ちてしまった。

食べ物をすべて 氷河に譲り、自身は幾日も何も食べていなかった彼女の弱った身体は、その水を冷たいと感じる間もなく、生きているものとしての活動を止めただろう。
彼女の命が 冷たい海に奪われてしまった頃、村の南の端の丘にある領主の館では、着飾った貴族や村の有力者たちが、温かい料理や甘い菓子を食べ、上等の酒を飲みながら、春の到来を祝う宴を催していたと、後になって 氷河は聞いた。

ただ一つの愛を失い、だが、彼女を死に追いやった者たちを責める力さえない氷河が、古い言い伝えに聞く冥王の指輪を手に入れて、母の命を奪った世界に復讐することを決意したとしても、誰にも氷河を咎めることはできないだろう。
実際、咎める者はいなかった。
氷河の周囲には、誰もいなかったから。
ただ一人の保護者を失った7歳の子供が、母の死後、たった一人で、3日と生き延びることはできないだろう。
そう、誰もが思っていたのだ。


だが、氷河は生き延びた。
母がいなくなってしまったからこそ、氷河には生き延びることが容易だった。
心正しく清らかだった母を悲しませないために、それまでせずにいたことをすれば、氷河は 食べるものや着るものは いくらでも手に入れることができたのだ。
人のものを盗み、嘘をついて騙し取り、人を傷付け、人を脅して奪い取れば。
生前の母の言いつけに背くことをするほどに、氷河の心は冷え、冷酷になり、それに反して 母への愛は強く深く熱くなっていった。

地上世界にあるもの すべてを憎み、死んでしまった母への愛だけを燃え立たせて、氷河は南へ向かったのである。
冥王の指輪を手に入れて、世界のすべてを支配する王になり、母を死に追いやった者たちへの復讐を果たすために。
頼る者とてない幼い孤児は、他に“力”を手に入れる術を知らなかった。


誰も愛さず、誰かに愛されることを求めなければ、全世界の王になれる指輪。
氷河が欲していたのは、指輪ではなく、力でもなく、復讐の成就でもなく、“母がいなくても生き続けるための目的”だったのかもしれない。
母が 彼女の命をかけて生かし続けようとした命を放棄するわけにはいかず、だから、氷河は とにかく生き続けなければならなかった。
だが、氷河は、愛以外の何かのために 生きる術を 知らなかった。
氷河は、死んだ母への愛のために――その愛を示すために 生きるしかなかったのだ。

死んだ母への愛を示す 最も単純で容易な方法が、母に悲しい死をもたらした世界への復讐だった。
世界への復讐。
それは、一生をかけても 叶うかどうか わからない目的だったので、決して 死ぬわけにはいかない氷河には、非常に 都合のいい“生きる目的”だった。
冷酷な世界への復讐は容易に叶う望みではなく、その目的を果たすための力である冥王の指輪は 簡単に手に入るものではないと、氷河は思っていた。
ある場所もわからない冥王の指輪。
自分は、その指輪を一生 探しまわることになるのだろうと、氷河は思っていた――そうなることを期待していたのである。






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