氷河のそんな自暴自棄に、瞬が、卑怯としか言いようのない方法で対抗してくる。
瞬は、寝台の上から氷河の方に両腕を伸ばし、氷河の肩を抱き包もうとしたのだ。
そうしようと意識したわけでもないのに、氷河は自分の上体を瞬の方に傾け、近付けていた。
「悲しいことはあるでしょうけど、氷河が 氷河のお母様の愛を忘れたくないと思うくらい、氷河がお母様の愛に 報いるために、悲しくても寂しくても生き続けようと思うくらい――この世界には愛が満ちていて、その愛ゆえに この世界は素晴らしい世界なんですよ」

瞬の優しい腕に抱きしめられ、優しい声で諭されると、瞬の言う通りのような気がしてくる。
瞬の腕と声の中で うっとりしかけていた氷河は、だが、
「僕は、氷河のいる世界を守るために もう一度眠りに就きます。僕に命じてください。『再び、眠りに就け』と」
という瞬の言葉で、一瞬で 正気(?)を取り戻してしまった。

「駄目だ! おまえが俺のものにならないのなら、俺は こんな世界はどうなってもいいんだ!」
「氷河……!」
腕を、氷河に振りほどかれた瞬が、切なげな目で氷河を見上げてくる。
氷河の心は痛んだが、彼はここで瞬に説得されてしまうわけにはいかなかったのだ。
「そうだ。おまえの言う通り、愛の力は強大なんだろう。愛は憎しみより強いし、愛は 死より強い。マーマを失って、永遠に その喪失感を唯一の友に生きていくのだろうと思っていた俺が、こうしてまた、人を愛してしまうほど。だが、愛が絶望より強いかと言われると、そうとは限らないぞ。希望あってこその愛だ。いつか愛してもらえる、いつか わかってもらえる、きっと忘れないでいてくれる。自分の愛が永遠に否定され続けるなら、人は愛をすら憎むようになるだろう」

「愛を憎むなんて、そんなこと……」
瞬の瞳が、恐れの色を帯びる。
その色は、すぐに涙の膜に覆われた。
「僕は、氷河に生きていてほしいから、氷河の幸福を願っていた氷河のお母様のためにも、氷河の生きている世界を守りたいと言っているんです! どうして わかってくれないの!」

瞬の涙ながらの訴えに、氷河が ふいに黙り込む。
理性的に 諄々と 理を説くより、感情に訴えた方が、氷河には有効だったのだ。
氷河は、瞬の言うことを理解した。
瞬が望むようにではなく、氷河が理解したい通りに。
氷河は、瞬の涙に、希望を見い出したのだ。
「それは、おまえが俺を嫌っているわけではないということか? 俺の愛を迷惑に感じているわけではなく、俺の幸福を願ってくれている――と?」
「え……? ええ、まあ、その通りです」

何か微妙に、二人の認識のニュアンスが違っている――ような気がする。
そういう心許無げな表情で、瞬が頷く。
だが、氷河には、それで十分だった。
マーマを失ってから十数年、ついに見い出した新しい希望を、氷河は手離す気はなかったのだ。
「よし。では、おまえは再び 眠りには就かない。俺は、そんな指輪を自分の指に嵌めて 愛を拒むなんて、愚かな真似はしない。世界が滅びる可能性も排除する。――その線で、対応策を考えよう」
「た……対応策?」

氷河は いったい何を言っているのか。
瞬には――瞬は ほとんど理解できなかった――理解できていなかった。
だが、氷河は彼の話を続ける。
一刻も早く、二人の間にある障害を排除したくて、彼は気が急いているようだった。

「冥王の指輪は、生きている人間の指に嵌められていなければならないんだな? 3日以上 生きている人間の指に嵌められていないと、星が勝手に動いて、陽光が地上に届かなくなる。で、地上世界は一巻の終わり」
「そうです」
「だが、誰かの指に嵌めると、そいつが世界を支配してしまう」
「ええ」
「なら、この指輪を嵌める役、交代制にしてみたらどうだ? 指に嵌めているのは1日だけ。愛を忘れるのも1日だけ。世界を支配する力を与えられるのも1日だけ。そして、その1日、そいつは牢にでも閉じ込めておく。たとえ 世界を支配する力を与えられたとしても、そいつは たった1日で全世界を掌握できるわけではないだろう」
「こ……交代制って……。そのルールが確実に厳密に履行されたら いいですけど、でも、きっと、いつか 次の日も自分の指に嵌めておきたいと考える人が現れて、そのルールを乱しますよ」

「なら、指輪を交代で嵌めるのを、1歳以下の赤ん坊に限るとするのはどうだ? それなら、野心を持つこともない。安全だ」
「氷河……どうして そんな奇抜なアイデアを思いつくんです……」
「無論、おまえへの愛ゆえだ。どうだ。それなら、うまくいくとは思わないか?」
「そ……そうですね。それなら、野心から ルールを乱そうとする赤ちゃんは現れないと思います。でも、僕にも ぶかぶかの この指輪、赤ちゃんの指に嵌められるでしょうか。いえ、嵌めることはできるでしょうけど、赤ちゃんが どこかに落としたり、呑み込んだりしたら、大変です」
氷河の思いつく対応策の問題点を 真面目に考察している自分に、瞬は目眩いを覚えていた。
しかし、氷河は大真面目なのだ。

「なるほど、そのパターンは考えていなかった。丈夫な紐で指輪をくくって、赤ん坊の指から外れないようにする必要があるな。紐は長いものにして、その端を柱にでも結び付けておけば、赤ん坊も自由に動きまわれるし――」
「氷河。そんなルールを、人間が永遠に守り切れると思っているの。この指輪は神が作ったものなんだよ。神域や聖域以外の場所で、人間の管理下に置くのは無理だよ。人間がルールをしっかり守り続けても、たとえば地震や洪水に見舞われて、指輪が失われる可能性だって――」
「む……」
「瞬は本当に心配性ね。それは人間に責任のあることとは言えないから、その時には、指輪を作った者の責任において、ハーデスが指輪を探し出し、しかるべき場所に戻すことになるでしょうね」

人智では いかんともし難い不測の事態の対応策を思いつけず、言葉に詰まってしまった氷河の代わりに、その対応策(?)を示してくれたのは、いずこからともなく現れた一人の少女だった。
今度は 間違いなく少女で、その唐突な登場の仕方からして、どう考えても“普通の人間”ではない。
もちろん、普通の人間ではなかった。
その姿を認めるなり、瞬が寝台を下り、その少女の前で 腰を折ったところを見ると。
そして、瞬が彼女の名を呼ぶ。
「アテナ!」






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