「何よ、何よ、何よ!」
奇妙な外国人に娘を奪われる恐れがなくなったからか、あるいは、氷河が 醸し出していた張り詰めた空気が遠ざかったからなのか。
過呼吸状態から脱していた少女の母親が 通常の(?)興奮状態に戻る。
彼女を落ち着かせるためというより、彼女の小さな娘のために(それは、小さな女の子の幸福を願う氷河のためでもある)瞬は、まだ苛立ちを消しきれていない母親の前に行き、彼女に頭を下げた。

「すみません。彼は――事故で、娘を亡くしたばかりなんです。そちらの お嬢さんと同じくらいの」
「……」
少女の母親は、確かに愚鈍ではないのだろう。
瞬の その言葉だけで、氷河の怒りと言動の意味をわかってくれたところを見ると。
彼女は瞳を見開いて、
「ごめんなさい……」
と、瞬に謝ってきた。

我が子が 自分の思う通りに動かず、育たず、親の期待を裏切るようなことばかりするので、気持ちが ささくれ立っていただけで、彼女は決して悪い人間ではない。
自分の娘を愛していないわけでもない。
彼女の苛立ちは、自分の期待に応えてくれないのが、愛する我が子だからなのだ。
彼女の小さな娘の右側に立ち、瞬は、小さな声で 彼女の母親に耳打ちをした。

「さきほどから娘さんを拝見していたのですけど……。娘さん、反応が鈍くなったのは、ここ数ヶ月のことではありませんか? 以前は、普通より俊敏で お利口なくらいだった」
「え……ええ」
瞬の推察は 当たっていたらしい。
母親の苛立ちは、以前の賢い娘に慣れていたせいもあったのだ。
「娘さんは、耳にトラブルが起きているのかもしれません。右の耳だけ、よく聞こえていないように見えます。ママの声が聞こえたり、聞こえなかったりするんですよ。聞こえなかった時に、反応が鈍くなる。決して、知能に問題があるわけではない――と思います。一度、できるだけ早めに、耳鼻咽喉科で診てもらってください。」

「耳が聞こえていない……? じゃあ、それで――」
思い当たることがあったのか、彼女の表情は 少し明るく、そして、緊張したものになった。
気付かずにいた自分に腹が立ち、そして、少し希望が見えてきた――というところか。
瞬を見詰める彼女の目には、感謝と 敬意に似た光が宿っていた。
「ですが、もし そうでなかったとしても、娘さんを愛してあげてください。愛していることを、知らせてあげてください。お願いします」
「はい! はい、ありがとうございます!」

『余計なお世話』と言い返してこないのだから、大丈夫だろう。
小さな娘にも 礼を言わせようとする母親を微笑で止めて、瞬は氷河を追った。
ケヤキ広場を抜けて 芝生広場。
今日も、あの少年が見ている。
無個性な外見と、強烈な視線の少年。

遊歩道で氷河に追いつき、その隣りに立つ。
あの母娘に何をしてきたのかと問うようなことをする氷河ではなかった。
おおよそのところは わかっているのだろう。
瞬も、その件については報告せず、氷河の振舞いを諫めることだけをした。

「氷河。気持ちはわかるけど……。もし、あれで、あのお母さんが怪我をするようなことがあったら、あの子が悲しむことになるよ」
「もう、しない」
「そうして。あの子は大丈夫だよ。あの お母さんは ちゃんと あの子を愛しているから」
「……」
それまで、おそらく 自分の浅はかな振舞いと 娘を傷付ける母親の振舞いに腹を立て、その憤懣を押さえつけるために、乱暴な早足で歩いていたのだろう氷河の足取りが、瞬のその一言で落ち着きを取り戻す。
その場に立ち止まった氷河に、瞬は 思い切って尋ねてみた――尋ねてみようとした。

「氷河、もし――」
最後まで言う前に――というより、まだ何も言っていないのに、氷河から、
「違う」
という答えが返ってくる。
瞬が尋ねようとしたのは、
『氷河、もし子供がほしいのなら――』
その方法は 幾らでもあると、瞬は言おうとしたのだ。

だが、氷河の答えは『違う』
瞬が問おうとしたことの内容を、氷河が取り違えることは考えられず、当然、彼の答えが見当違いということはあり得なかった。
では、氷河は子供がほしいわけではないのだろう。
そうではないのだ。

「俺が育てられるのは、不幸で悲惨な子供だけだ。俺が親でも、いないよりましだと思えるような。でないと、俺に子育てはできない。俺自身が でかい子供のようなものなのに」
否定も肯定もできない。
氷河が 大きな子供のようなものであることは 事実だが、この大きな子供は、平均的な大人の何倍もの経験値と能力とポテンシャルを有しているのだ。

切なく微笑することしかできない瞬を、氷河が抱きしめてくる。
日中の公園の遊歩道の真ん中。
自分のしたいことをする大きな子供を、たしなめることは、瞬にはできなかった。
「俺は、おまえがいればいいんだ。ガキの頃から そうだった。おまえさえいれば、俺は 生きていられる。ただ……ただ、あの子もいる方が、もっとよかっただけで」
「僕はずっと、氷河の側にいるよ」
言って、大きな子供の背を抱き、撫でてやる。
この大きな子供は、誰よりも 我儘で、だが、誰よりも優しい心を持っている 可愛い子供だった。






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