それは、一人の男だった。
嵐の季節が終わった ある日、翼を持つ馬に乗った若い男が アンドロメダ島の上空に現れたのだ。
いかにも“ただの人間ではない”、その様子が、瞬には不吉なものとしか感じられなかったのである。
その、いかにも“ただの人間ではない”男を乗せた馬は、空の高みから アンドロメダ島の白い浜に いとも優雅に下り立った。
馬を操っていた男が、気取った所作で 馬の背から浜に飛び下り、
「私は、英雄ペルセウス」
と名乗りをあげる。
自分で自分を英雄と名乗る英雄に、瞬はぽかんとした。
が、瞬は、まさに“ただの人間ではない(=普通ではない)”自称英雄の自己紹介に のんびり呆れ驚いている場合ではなかったのである。

“普通ではない”自称英雄は、瞬の傍らに立つ氷河を見て、
「どんな恐ろしい怪物かと思ったら、ただの しょぼくれた白鳥一羽ではないか。こんなのを倒しても、どんな称賛も得られない。本当なら、私は、巨大な海獣クラーケンを倒すはずだったのに」
と文句を言いながら、腰に携えていた剣を鞘から抜き放ち、振り上げ、そのまま 振り下ろそうとしたのだ。

「何するのっ!」
瞬は ほとんど反射的に、自称英雄と氷河の間に割って入り、氷河を背後に庇った。
庇いながら、その状況を“おかしい”と感じていた。
瞬が 氷河を庇うために動くまでもなく、氷河は自称英雄の剣から逃れることができたのだ。
氷河の背の傷は既に癒え、彼は以前の力強い羽ばたきを 取り戻していたのだから。
にもかかわらず、氷河は彼を傷付けようとする自称英雄の剣から逃げようとしなかった。

氷河が逃げようとしなかったのは なぜなのか。
氷河が逃れられなかったはずはない。
自称英雄の動きは ゆっくりしたものだった。
“ただの しょぼくれた白鳥”には、逃げる権利もないと言わんばかりに。
実際、氷河は逃げなかった。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられるのに。
まるで 英雄に退治されるのが 自分の務めと考えているかのように、氷河は動かなかった。
だから――逃げない氷河の代わりに、瞬が動いたのである。

「何をするんです! 氷河が何をしたっていうの!」
瞬に割り込まれたせいで、剣を振り下ろし損ねた自称英雄が きまり悪そうに、振り上げた剣の向きを変えて、下に下ろす。
責めるような瞬の声音に――もとい、瞬は完全に責めていた――合点がいかないらしく、自称英雄は瞬の顔を見おろして、奇妙に唇を歪めた。

「何をしたも何も――これは あなたをエティオピアの王城から誘拐した邪悪な白鳥でしょう。あなたの人間としての権利を奪った悪党だ。その上、こんな島に閉じ込めて、まともな家も服も食べ物も与えず――有力な王家の一員が ひどい ありさまだ」
自称英雄が、不躾で無遠慮な視線を瞬に向け、馬か牛の品定めをするように、その視線を 上から下へ、下から上へと、幾度も往復させる。
彼は、瞬の姿に、明らかに失望していた。

髪は伸び放題。
サンダルは履いておらず素足。
服も、以前は、氷河が調達してくれた絹やサテンの長衣を着たりもしていたが、最近は専ら 海で泳ぐのに楽な麻の短衣ばかり。
もちろん、首飾りも髪飾りも指輪も身につけていない。
自称英雄は 瞬の身分を知っているようだったが、事情を知らない人間なら、瞬は高貴な王家の一員だと言われても、にわかに信じる気にはならないに違いなかった。

「私は、あなたをさらった邪悪の徒を退治して、あなたを救いに来た正義の英雄なんだが」
自称英雄が、今度は、自称 正義の英雄にグレードアップする。
彼にしてみれば、誘拐の被害者が 加害者を庇って、正義の味方である救助者を責めるという構図に 得心できないのだろう。
自称英雄の考え方は、画一的ではあるが、一般的でもある。
こういう場合、大抵の人間は、救助者の登場を喜ぶ。
救いに来てくれた人を歓迎せず、感謝もせず、逆に非難する瞬の方が非常識なのだ。
だが、瞬は、その非常識なことをした。

「氷河は優しいし、食べ物だって、衣服だって、一生懸命 危ない目に遭いながら運んできてくれました!」
「はあ? だから、どうだというんだ! 何を言っているんだ! 私は、あなたの解放者なんだぞ。この鳥が食べ物を運んでくるから、だから、一生 この島にいるとでもいうつもりなのか、あなたは! 白鳥の寿命など、どんなに頑張っても、せいぜい十数年。その後、一人で ここで どうするんだ。今、私に助けられないと、あなたは永遠に世界から忘れられた存在になるんだぞ!」
おそらく、極めて常識的で、一般的で、正しくさえある自称英雄の言葉に、氷河の身体が小刻みに震える。
自称英雄の言葉が、極めて常識的で、一般的で、正しくさえあるから、氷河の身体の震えが、瞬にはつらく感じられた。
自称英雄が、氷河を退治して、瞬を この島から連れ出すというのなら、瞬は、自称英雄のすることを何としても阻止し、何としても 氷河の身を守らなければならなかった。

「あなたの行動も お言葉も、ご厚意からのことなのだとは思います。それには 心から感謝します。ですが、鳥の寿命が何だっていうんです。人間なら、誰もが同じだけ 長生きするとは限らない。そうおっしゃっている あなたが、僕や氷河より先に、明日 死んでしまうかもしれません」
「なにっ」
瞬には自称英雄を揶揄する意図はなく、決して0ではない可能性について述べただけだったのだが、瞬の言は 思い切り 自称英雄の癇に障ったらしい。
自称英雄は、英雄らしいのか、らしくないのか、あっさりと瞬救出を諦めてしまったようだった。

「こんな頭のいかれた姫など、助けに来るんじゃなかった。不愉快だ。俺は帰る」
『私』が『俺』になる。
自称英雄は、向かっ腹が抑えられず、怒りで自分の心身を制御できなくなってしまったらしい。
左側からペガサスに跨ろうとして バランスを崩し、馬の右側に落ちてしまった。
怒りで自制心が機能していないというより、もしかすると、彼は、翼のある馬に乗り慣れていないのかもしれない。
ペガサスは、絶海の孤島から瞬を連れ出すために借りてきた、借り物なのかもしれなかった。

普段 乗り慣れている翼のない馬でなら、こんな醜態をさらすことはなかったのに――と 彼が思っても、それは少々みっともないことではあるが、悪いことではないだろう。
だが、だからといって、
「翼なんて、下等な動物の持ち物だ!」
と言って、翼のあるものを まとめて貶めるのは感心しない。
ペガサスも、彼を自分の背に乗せることを嫌がっているようだった。

それでも、自称英雄が そのまま(彼にとっては)不愉快な島を立ち去ってくれていれば、何の問題もなかったのである。
瞬は、馬に乗り損なった人を嘲笑うような下品なことをする人間ではなかったし、氷河も、自称英雄の醜態を わざわざ笑ってやる親切心の持ち合わせはなかった。
が、それがよくなかったのかもしれない。
誰も彼を笑わなかったから、自称英雄は、自分のきまりの悪さを 自分で収めるしかなくなったのだ。
彼は、一度は鞘に納めた剣を再び抜き、氷河の命ではなく翼を断ち切るために、それを使った。
自称英雄は 剣を水平に薙ぎ払い、氷河の左の翼の半ば近くを切り落とした――否、切り散らした。アンドロメダ島の浜に、無数の白い羽根が雪のように舞い狂う。

「何をするのっ!」
自称英雄に殺気がなかったので、氷河も瞬も素早く反応できなかった。
血は流れていない。
自称英雄は決して はったりだけの道化者ではなかったらしく、見事に風切羽の初列風切と次列風切だけを 根本から切り散らしていた――全く身体に傷をつけず、飛行能力だけを永遠に氷河から奪い去っていた。
「氷河! 氷河、大丈夫っ !? 」
瞬の悲鳴で、自称英雄は留飲が下がったらしい。
羽毛の雪が降る中、今度はちゃんとペガサスに跨って空中に飛び上がると、彼は ギリシャ本土を目指して意気揚々と飛び去っていった。

「氷河……翼が……ひどい……なぜ、こんな……」
痛みはないだろう。
風切羽に神経はない。
自称英雄は、氷河の命を奪うためではなく、彼を飛べない鳥にするために、こんな無体なことをしたのだ。
切られたのは左の翼だけで、右の翼は無事だったが、これでは全くバランスが取れない。
実際 氷河は飛行を試みたが、バランスを崩しながら 数秒 浮くことはできても、飛び続けることはできなかった。
つまり、海を渡ることができない。

幾度も飛行を試み、どうしても空に飛び上がることができず、氷河は最後に 羽がなくなった翼を砂浜に広げて倒れ伏してしまった。
肉体的な痛みがない分、氷河の心が痛んでいることが 感じ取れて、瞬は逆に自身の身体に痛みを覚えたのである。
「氷河、大丈夫だよ。安心して。海なんか渡れなくても、僕たちは生きていける。今度は僕が、氷河の分の食べ物を ちゃんと――」
状況は、決して絶望的なものではない。
氷河が海を渡れなくても、二人が命を永らえることはできる。
砂に突っ伏すように倒れ込み、身体を起こそうとしない氷河の身体を抱き上げ、抱きかかえて、瞬は懸命に氷河に訴えた。

だが、氷河が絶望していたのは、二人の命に関してではなかったらしい。
彼が絶望していたのは、瞬の幸福に関して――だったのだ。
慰撫なのか鼓舞なのか、瞬自身 よくわかっていない その言葉に、氷河は、やはり力なく項垂れるばかりだった。
「瞬、すまん。飛べるうちに、おまえを故国に帰してやればよかった。俺が愚かだった。俺が 身の程知らずに、おまえに恋してしまったばかりに、こんな……」

やっと言ってくれた。
氷河が恋した相手が誰だったのか。
おそらく、絶望が 氷河に その告白をさせたのだ。
だが、その告白が遅すぎたということがあるだろうか。
二人はまだ生きているのに。
まだ いくらでも生きていられるのに。
瞬は氷河を抱きしめた。

「僕は氷河が大好きだよ。この島に、ずっと氷河と一緒にいる。大丈夫だよ。大丈夫」
「瞬……」
そういうわけにはいかないと、氷河が思っていることが、瞬にはわかった。
氷河の心臓は、全く ときめいていなかったから。
それは 冷たく弱々しく、残酷なほど ゆっくりと規則正しく鼓動を打っていた。
今の氷河は、恋の情熱より、後悔と瞬の行く末を案じる心の方が勝っているのだ。
初めてやっと、互いの思いを伝え合うことができたというのに。
瞬は、氷河の後悔が悲しかった。






【next】