聖闘士の力に頼らず、ちゃんと歩いて 紅茶と紅茶に入れるウォッカを買いに出ていた氷河は、帰宅後、いつのまにか自宅に 危険な力を持つ男が二人も 入り込んでいることに気付いて、渋面を作った。
光速移動は、事情を知らない一般人の目には、人の姿が唐突に消え 唐突に出現する、異常な現象に見えるので、人の命に関わる重大時以外には 絶対禁止。
出勤や買い物のために その力を使うことなど、言語道断。
誰かに見られて、良くない噂でも立てられたら、自分に責任のないことで つらい思いをするのはナターシャちゃんなんだから!

――という、瞬の厳しいお達しを守って、自分は 真面目に地道に てくてく買い物に行ってきたのに、星矢だけなら まだしも紫龍までが、その絶対禁止の力を使って 世帯主に断りなく、平和な家庭に入り込んでいる。
しかも、その理由が、世界の平和を守るためでも 人命救助のためでもなく、“ケーキの匂いに釣られて”。
星矢は、家族団欒のための週末ケーキに手を出す気満々でいるのだ。
これで喜色満面でいられたら、氷河は とんでもない お人好しか、単なるマゾヒストだろう。

とはいえ。
絵に描いたような平和で幸福な家庭、家族団欒を乱されて、死ぬほど不機嫌でいることを、表情や言葉で示すことは、残念ながら氷河にはできなかったのである。
ナターシャの手前。
そして、状況を理解して 本格的に不機嫌になる前に、
「ナターシャちゃんは、氷河みたいに 片眉を動かせるようになる必要はないんだよって、言ってあげて」
と、瞬に命じられてしまったせいで。

「そんなことは、確かに できるようになる必要はないが、できるようになっても問題はないだろう。ナターシャなら、おまえ同様、何をしても可愛いに決まってるし」
氷河は、瞬の意見に逆らうことは滅多にしない男である。
その氷河が、どちらかといえば、パパのように片眉を動かせるようになりたいと訴えるナターシャ寄りの立場を取ることになったのは、決して ナターシャに片眉を動かせるようになってほしいと思うからではなかった。
かといって、瞬の意見に真っ向から反対する度胸があったわけでもない。
それは、ナターシャの言動が 幼い頃の自分に重なって、我知らず 懐旧の念に囚われてしまったから――だった。

「事の良し悪しは さておいて、好きで憧れている人のすることは 真似したいものだろう。俺もガキの頃はそうだった。今のナターシャのように、鏡を相手に、懸命に 片眉を動かす練習をしたんだ」
「氷河が?」
「パパが?」
「おまえが?」
「練習した?」
声は順に、瞬、ナターシャ、紫龍、星矢。

幼い頃の思い出を懐かしそうに語る氷河。
そして、氷河には、パパとマーマにできることをマスターしたいと言い張るナターシャを止める気はないようだった。
瞬としても、それは いわゆる悪事ではないので、氷河が 片眉ナターシャを是とするのであれば、彼女の特訓を断固として阻止するつもりはなかった。

というより、瞬は、ナターシャの挑戦を阻止する意欲を、急速に失ってしまったのである。
氷河の、『好きで憧れている人のすることは 真似したいものだろう』という言葉に、虚を衝かれてしまったせいで。
『俺もガキの頃は(中略)鏡を相手に、懸命に 片眉を動かす練習をしたんだ』という告白が、あまりに思いがけなくて。






【next】