「それで、人間でいる方が いいなって 思い直したんです。人は よく僕のことを優しいと言いますけど、本当に優しいのは 僕の仲間たちだ。僕の仲間たちは、みんな優しい。みんなが優しいから、僕も優しくなれるし、みんなが強いから、僕も強くなろうと思えるんです」 「それで、瞬先生は、聖闘士になって、黄金聖闘士になって、お医者さまにもなった――んですか」 空き地に咲く野の花になりたかった――と、瞬が言い出した時には どうなるかと思ったが、ゴールは やはりハッピーエンド。 ナターシャには聞かせない方がいいのではないかと、吉乃ですら案じていたのに、氷河が何も言わずにいたのは、 「僕は一人じゃなかった。僕には仲間がいたから――挫けようと思っても、みんなが支えてくれて、励ましてくれて、挫けることが許されなかったんです。僕は、本当に恵まれていたと思う」 水瓶座の黄金聖闘士には、小さかった瞬の夢の行き着く先が わかっていたからだったのだろう。 案ずるまでもないことだったのに――と、吉乃は自分の心配性に 胸中で苦笑した。 そして、こうなると やはり、氷河の夢を尋ねないわけにはいかない。 尋ねないわけにはいかないと、吉乃は思い、思ったことを行動に移したのである。 「氷河さんの夢は 何だったんですか」 瞬の夢が、野の花になることだったのだ。 氷河の夢が、酒瓶になることでも驚かない。 その覚悟で尋ねた氷河への問い掛けへの答えは、(瞬ほど常識人とされていない)氷河にしては、意外なほど普通なものだった。 かつてはマザコンで勇名を轟かせ、今は愛娘への親馬鹿振りで名を馳せている元白鳥座の聖闘士、現 水瓶座の黄金聖闘士の幼い頃の夢。 それは、 「俺の夢は 魚になることだった。小さな魚だ。その代わり、どれほどの低温、どれほどの水圧にも耐えられる魚でなければならない」 というものだったのだ。 冷たく深い東シベリア海の底に眠る母に会うための、ささやか かつ大胆な願い。 彼らしい夢なのだろうと、吉乃は思ったのである。 『野に咲く花になりたかった』という瞬の夢の話を聞いた直後のせいか、さほどの驚きはない。 植物から動物に(しかも脊椎動物に)進化を遂げている分、瞬より常識的な夢と言えないこともない。 「だが、瞬が花になりたいと言うのを聞いた時、俺は瞬には人間のままでいてほしいと思った。翻って、自分の夢を考えてみると、俺の夢にも瞬の夢と同じような誤謬があることに、俺は気付いた。魚になって、マーマに会いに行っても、マーマは その魚が俺だと気付かないかもしれない。だから、俺は人間でいなければならないんだと考え直したんだ」 「は……」 だから、彼は、人間の姿のままで母に会いに行く決意をしたのか。 そもそも死んでいる母親に会いにいった息子が魚の姿をしていようが 人間の姿をしていようが、その違いに どんな意味があるというのだろう。 決して目を開くことのない女性は、そこに何かがいることにすら気付きようがないだろうに。 等々、突っ込みどころは多々あったが、吉乃は その辺りのことは、『氷河さんだから』で納得することにしたのである。 納得することにして、実際に納得してから、それで納得できる自分ではなく、自分を納得させてしまう氷河という存在に、吉乃は胸中で こっそり呆れた。 「黄金聖闘士が 二人も、そんな夢を見ていたなんて……」 小さな魚になりたかった黄金聖闘士と 小さな野の花になりたかった黄金聖闘士。 叶わなくてよかったと、心から思える夢もある。 氷河と瞬の夢は、まさに それだった。 「お二人の夢が叶っていたら、瞬先生は どこかの空き地を動けなくて、氷河さんは海の中から出られなくて、お二人は 出会うことはできなかった。花と魚じゃ、そもそも同じ場所にいられない。お二人の夢は 叶わなくてよかったんですよ」 「ほんと。氷河の夢が叶っていたら、氷河は ナターシャちゃんにも会えなかったかもしれない。氷河が お魚だったら、ナターシャちゃんも困るよねえ」 『パパがお魚になったら、ナターシャ、とっても困るから、パパ、お魚になるのはやめて』 そんな答えが返ってくると、吉乃たち――その場の大人たち――は思っていたのに、ナターシャの答えは違った。 ナターシャは、パパの夢を『駄目』と否定することはしなかった。 代わりに、 「パパがオサカナになったら、ナターシャは、海の底までパパを探しに行くヨ! どんなに深いとこまででも探しに行くヨ!」 と、力強く宣言する。 その宣言に慌てたのは、彼女のパパだった。 「ナターシャ……!」 『パパがオサカナになったら、ナターシャは、海の底までパパを探しに行くヨ! どんなに深いとこまででも探しに行くヨ!』 パパに会いたいというナターシャの健気な思いに、ナターシャのパパは感動し喜んでもよかったのに、彼女の父親は喜ばなかった――喜べなかったのだろう。 「そんな危険なことはしないでくれ。海の底に会いにくるのは 絶対禁止だ。それで ナターシャの身に何かあったら――」 たとえ会うことができても、そのために我が子が危険を冒しているのなら、子供の親は、決してその再会を喜ばない――喜べない。 自分の母も同じ思いだったのだと、氷河は気付いたようだった。 今になって、やっと。初めて。 息子が危険を冒して 死んだ母の許を訪ねることを、彼女は決して喜ばない――彼女は少しも喜んでいなかった――ことに。 「マーマは喜んでいなかった……」 あの危険な行為は、生き残った者の自己満足でしかなかったのだ。 ナターシャの息子は その事実に今になって気付いた―― ナターシャのパパになって初めて、やっと、彼は気付いたようだった。 遅い――遅すぎるほど遅い気付きであるが、吉乃は それを 呆れるほど氷河らしいと思ったのである。 母を愛すること、娘を愛することに夢中で、決して『愛されたい』と望むことをしない彼らしい。 愛するばかり、一方的に愛を与えるばかりで 報いを求めない彼だから、彼は そんなことにすら、今まで気付かずにいたのだろう。 「ナターシャちゃん、氷河の手を僕にちょうだい」 呆然と その場に立ち尽くしている氷河の右手が、ナターシャによって 瞬の手の中に運ばれる。 氷河の手を 両手で包み、瞬は微笑した。 「人間は誰も愚かな間違いを犯すものだよ。でも、氷河は 決して魚にならないし、僕も決して 野の花にはならない。僕たちは、そんな夢を もう二度と見ない。僕たちはずっと人間のままでいる」 「ナターシャも その方が 断然イイと思うヨ! ナターシャも、ずっとパパとマーマのナターシャでいるヨ! 」 どんな迷いもなく、そう言い切るナターシャ。 もしかしたら、大人も子供も 全部をひっくるめて、今 この公園にいる人間の中で いちばん賢いのはナターシャなのかもしれない――と、その場にいる大人たちは思ったのである。 そして、彼等は、ナターシャの意見に従うことにした。 叶うべき夢は、愛する人を幸福にするためのものであるべきだと思うから。 Fin.
|