氷河が 瞬との恋を実らせるには、誰が見ても男性で、事実 男性なのであろうシュヴァリエ・デオンを女性にする必要があった。 そのためには、デオン当人の協力が(多少は妥協もしてもらうことになるかもしれないが)必要不可欠である。 あとあとのことを考えれば、無理強いするわけでも、脅すわけでもなく、快く協力してもらうことが肝要。 そして、自分は女性であると、公の場で堂々と宣言。もしくは、女性であるという宣誓書に(快く)署名してもらうのだ。 デオンの快い協力を得るためには、やはり賄賂が最善――と思われた。 フランス王室から支給されていた年金の送金は、革命の勃発によって途絶えている。 デオンの経済的困窮は隠しようもなかった。 その方針で、氷河は活動を始めたのである。 女帝と連絡を取り、25万リーブルまでなら出していいという裁可を得るのに四苦八苦。 女帝の裁可を得たあとは、氷河は、女帝の意向をデオンに伝える術を探して四苦八苦することになった。 まともに英国王から面会許可を得ることは不可能。 そして、瞬に融通をきかせてもらっての面会も、まず無理である。 貧乏貴族の令嬢であるにも かかわらず、瞬には 賄賂は力を発揮しそうになかった。 悩んだ末に、氷河は、夜間、外部から バッキンガムハウスのデオンの部屋に忍び込む――という、かなり乱暴な手を使うことにしたのである。 デオンの部屋があるのは2階。 壁をよじ登ることも不可能ではないが、氷河は、逆に 屋根から2階のベランダに飛び下りる策を採ることにした。 用を済ませたら、更に2階のベランダから庭に飛び下りて、その場を立ち去ればいい。 さすがの瞬も、たかが賭け事のために、そんな盗賊まがいの無茶をする者がいるとは考えもしないだろう。 実際、氷河は、たかが賭け事のためならば、そこまでのことをしたりはしなかった。 氷河が そこまですることにしたのは、ひとえに、その目的が“賭けの勝利”ではなく、“恋の成就”だから。 恋は、良くも悪くも、人を極端に走らせる。 そして、恋は、人を冒険家にも泥棒にもしてしまうのだ。 恋のために、氷河が その無茶を決行したのは、6月の末。 年がら年中 気候の悪いロンドンで、その夜は珍しく快晴だった。 月は新月で、星の数が多い。 夜陰に紛れて屋根に登るのは、氷河には児戯にも等しく容易な作業だった。 縄も梯子も使わず ベランダに飛び下りるのも たやすい。かつ計画通り。 しかし、その先が全く計画通りではなかったのである。 デオンの部屋のベランダに飛び下りた途端、氷河は そこで、とんでもない光景を見ることになってしまったのだ。 部屋のほぼ中央の床に、ドレスを着たデオンが うつ伏せに倒れていた。 卒中の発作でも起こしたのかと案じた氷河は、だが、すぐに、デオンの巨体とドレスの下に誰かがいることに 気付いた。 床の絨毯に すがる白い手。 そして、細い手首が見える。 それが瞬の手だと気付いた途端、氷河は、冷静に物事を考えることができなくなっていた。 「こ……この、不気味野郎! 俺の瞬に何をするかーっ !! 」 室内に続く扉を蹴り飛ばして、ベランダから部屋の中に飛び込んだ氷河は、その怒声を最後まで言い終わる前に、デオンの身体を壁際にまで ぶっ飛ばしてしまっていた。 それが、これから25万リーブルもの大金のかかった交渉を持ちかける(予定の)相手だということは、氷河の意識の上から すっかり消え去っていた。 「瞬! 瞬、大丈夫かっ !? 怪我は……まだ最悪のことには……」 瞬の身の安否を確かめる氷河の声から 勢いが失せていったのは、瞬が既に最悪の事態に見舞われたあとだったから――ではない。 瞬は、特段の災厄に見舞われた様子もなく、いつもと変わらず明るい瞳をしていた。 血相を変えている氷河の様子に、一瞬間 ぽかんとし、その一瞬間後に、壁に身体を打ちつけて(氷河によって打ちつけられて)、その痛みに低い呻き声を生んでいるデオンに気付く。 デオンの災難(?)に気付くなり、瞬は、絶体絶命の危機から自分を救い出してれた人に礼も言わず、礼を言うどころか、その身体を突き飛ばして、デオンの許に駆け寄っていってしまったのだ。 氷河は決して、瞬には 不気味な女装男に襲われた恐怖に恐れおののいて号泣してほしい――と願っているわけではなかった。 だが、命の恩人ならぬ貞操の恩人に対して、この振舞いはどういうことなのか。 氷河の気勢が殺がれたのは、ある意味 自然なことと言えた。 その上、瞬は、低く不気味な声で呻いているデオンの巨体を抱き起こし、 「氷河っ! か弱い女性に、何をするんですかっ!」 と、氷河を責めてくるのである。 氷河の混乱は、致し方のないものだったろう。 そして、氷河が、瞬のその言葉に反問するように、 「か弱い女性……?」 と呟いたことにも、他意があってのことではなかった。 氷河は、純粋に疑問だったのだ。 瞬が誰のことを“か笑い女性”と呼んでいるのかが。 氷河は、たくましい巨漢の暴挙から “か弱い女性”を助けたつもりだった。つまり瞬を。 しかし 瞬は、どう考えても、氷河によって突き飛ばされたデオンのことを、そう呼んでいる。 たくましい巨漢のデオンを、“か弱い女性”と。 おかしいのは瞬の目か、それとも自分の耳なのか。 「おまえは、デオンに襲われていたのではないのか?」 念のために確認を入れた氷河を、 「違いますっ! 何て失礼なことを言うのっ」 瞬は、力一杯 否定し、かつ厳しい口調で叱責してきた。 つまり、氷河が目撃した光景は、 「リアさんが、最近 外出許可が下りなくて、身体がなまると おっしゃるので、スポールブールで遊んでいたんです。リアさんが、ボールに足を取られて転んだ先に 僕がいて、支えきれずに二人で床に倒れてしまっただけ!」 ということだったらしい。 言われてみれば、室内の床のあちこちに、真鍮のボールが転がっていた。 氷河は、スポールブールなる遊戯に興じたことはなかったが、ラブレーの『ガルガンチュワ』か『パンタグリュエル』で、主人公が そんなゲームに興じている場面があった――ような記憶がないでもない。 フランスに 複数の球を用いる そんな球技があると、聞いたことはあった。 「あー……」 しまった! と、氷河が胸中で臍を噛んだのは 何に対してだったのか。 こっそり忍び込むつもりだったのに、これ以上ないほど騒がしい大太刀回りを演じてしまったことに対してか、快い協力を求めるつもりだった人を 思い切り突き飛ばしてしまったことに対してか、それとも、よりにもよって 瞬に不正な計画を露呈してしまったことに対してだったのか。 いずれにしても、氷河が 馬鹿げた勘違いのせいで 取り返しのつかないミスを犯してしまったのは、紛う方なき事実――のようだった。 「だいいち、女性のリアさんが、どうして そんな……氷河の考えているようなことができるんですか!」 デオンの上体を支えて 氷河を叱責している瞬の身体の横幅は、“か弱い女性”であるらしいデオンの半分。 この世界に、瞬の二倍どころか三倍も幅があり腕力も優れた女性が存在することは知っている。 プロイセンのゲルマン民族、ロシアのスラブ民族の一部、英国のアングロサクソンの一部。 大柄な女性は どこにでも、いくらでもいる。 しかし、デオンはフランス人。一般的には小柄と言われているラテン民族。 デオンの体躯は、“ラテン民族にしては大柄な男性”の典型だった。 「女性のリアさん……とは……」 シュヴァリエ・デオンが 女性だったら どんなにいいかと思いはするが、どう見てもデオンは女性には見えない。 「いいんだ、瞬。君の思い遣りは嬉しいが……」 軽い脳震盪から脱したらしいデオンが瞬に そう告げる声も、男性的とは言わないが、決して 女性のそれではない。 「リアさん……」 切ない目をして シュヴァリエ・デオンを女性の名で呼ぶ瞬の声の方が、はるかに か細く繊細だった。 |