そんなことはありえない。 俺の子供に母親がいないなんて、そんなことは ありえない。 俺が、母親のいない子供を育てているなんて、嘘だ。 そんな、決して幸せになれないとわかっている子供を、なぜ俺が育てる? 子供はマーマがいてくれないと幸せになれないんだ。 幸せな子供の側には必ずマーマがいる。 マーマのいない子供なんて、そんな悲しい存在を、俺が許すはずがない。 おまえのいうことは、みんな嘘だ。 おまえは嘘をついている。 おまえが俺に書いてよこすことなんか、俺は絶対に信じない。 多感で一途な氷河。 あの頃の氷河の幸せの記憶は いつも、マーマと生きていた日々の中にだけあったのだろう。 他に何もなくても、マーマさえいてくれれば幸せだった氷河。 自分がそうだったのだから、自分以外のすべての子供が そうなのだと信じているのだ―― 多感で一途な氷河は。 子供はマーマがいてくれないと幸せになれないと。 幸せな子供の側には必ずマーマがいると。 そう断じたあとに、氷河の手紙には、一通目の手紙にもあった5行の改行があった。 自分の気持ちを整理するための5行。 その5行のあとに現れた氷河は,“大人”になっていた。 すまない。 おまえはきっと俺のために、俺に生きる希望を持たせようと思って、作り話を書いてくれてるんだろう。 俺の敵が、俺のために、あんな幸福な おとぎ話のような手紙を書いてくれるはずがない。 だが、俺は 絶対に マーマのいない子供の父親には ならないと思う。 俺は、そんな不幸な子供は絶対に作らない。 だから、おまえの書く話は。みんな作り話だ。 でも、ありがとう。 ごめん。 ありがとう。 多感で一途な氷河。 “瞬”という融通のきかない頑迷な仲間に好意を抱いて、冷たく“気付かぬ”振りをされている氷河。 あの頃の氷河は信じていたのだろう。 子供はマーマがいてくれないと幸せになれないのだと。 幸せな子供の側には必ずマーマがいるのだと。 そんな氷河に、幸福な未来の訪れを信じ、希望を持って生き続けてもらうには どうすればいいのだろう。 未来の君の子供にはマーマがいると嘘をつけばいいのだろうか。 まさか。 氷河に嘘をつくことはできない。 しかも、氷河は――過去の氷河は、自分の気持ちが変わることはないと信じている。 その確信は、ごく最近まで事実だった。 瞬は気付かぬ振りをするのをやめ、氷河の前で正直に素直になり、そうして 二人はずっと幸せだった。 子供でなくなった氷河は、マーマがいなくても 人は幸福になれるのだということを知り――『知った』と、瞬に言ってくれた――が。 ナターシャが 氷河の許にやってきてから、二人の関係は自然に解消されたようになっていた。 それとも、自然に解消されたと思い込んでいただけだったのだろうか。 子供は 道徳的な環境で育つことが望ましいと決めつけた臆病で卑屈な頑固者が、一人で勝手に。 『君の心は変わっていない』 そう書かない限り、古いポストの向こうにいる氷河は、瞬の手紙を嘘と決めつけたままだろう。 『君の娘のナターシャちゃんにはマーマがいる』 そう書かない限り、過去の氷河は、娘と共にある幸せな自分の未来を 信じてはくれないだろう。 その二つの文章を彼への手紙に書くには、どうしたらいいのか。 道徳や社会のルールを消し去り、愛の力にだけ従っている自分の姿を想像してみると、その答えは 意外なほど あっさりと見付かった。 |