いちばん好きな“パパとマーマとお手々つないで”。
ナターシャの両手が ふさがったので、笹の枝は氷河の空いた手に移動した。

ところで、瞬たちが“三人で お手々つないで”ができるのに、銀杏の並木道を避けることが多かったのは、そちらをまわると、どうしても“公園のパン屋さん”の前を通ることになるからだった。
“光が丘メロンパン”が名物の“公園のパン屋さん”は、メロンパンが焼き上がる時にはいつも行列ができる人気店である。

それでなくてもパン屋の周辺は バターの匂いが 人を引きつけるものだが、光が丘メロンパンが売りの“公園のパン屋さん”は 周囲に漂う匂いが 他のパン屋のそれより甘くて、その誘惑の力は一層 強力。
その誘惑に屈したら、おなかに ご飯が入らなくなること必至。
甘い匂いの誘惑と 懸命に戦うナターシャを見るに忍びず、瞬は、ナターシャと一緒の時は あまり そちらを通らないようにしていたのだ。

店の前に行列がないところを見ると、今日の午前の分のメロンパンは既に売り切れてしまったのかもしれない。
通常のバターの匂いだけなら、ナターシャの意思力は余裕で “公園のパン屋さん”の誘惑に抵抗できる。
そう思っていたのだが、“公園のパン屋さん”の前を通りすぎる前に、ナターシャの足は止まってしまった。
その視線は、“公園のパン屋さん”のウィンドウに向けられている。

「あれ?」
ナターシャが立ち止まったのは、だが、パンの誘惑の手に捕まってしまったからではないようだった。
行列のないパン屋のウィンドウの前に、一人の女の子が立っている。
彼女は瞬たちに背を向けて、パン屋の店内を 微動だにせず じっと見詰めていた――そう見えた。
ナターシャは、“公園のパン屋さん”のパンや看板ではなく、その少女の姿に目を留めたのだったらしい。

「どうしたの? あの子はナターシャちゃんのお友だち?」
「ウウン。オハナシしたことはないヨ。デモ――」
相手の誰でも物怖じすることのないナターシャが『オハナシしたことはない』と言うのなら、遊具のある ちびっこ広場で その女の子に会うことはない――ということだろう。
『では、どこで?』と瞬が尋ねる前に、ナターシャから その答えが返ってきた。
「あの子、前に見た時も、パン屋さんの前に立ってたノ。あんなふうに、銅像みたいに」
「銅像みたいに? 銅像みたいになっちゃうくらい、パンが好きなのかな……?」

パンを大好きな女の子が パン屋さんの前に立っていることには 何の問題もないが、それが どう見ても未就学児童で、しかも 一人きり――というのは問題である。
近くに 保護者らしき大人の姿は 影も形もない。
一人きりで立っているということを抜きにしても、その少女は、ナターシャとは別の意味で 目立つ少女だった。

とにかく痩せている。
病的といっていいほど、痩せている。
身長はナターシャと さほど変わらないのに、幅は ナターシャの半分しかない。
ナターシャも細い方なのに、その半分。
黄ばんだ半袖のTシャツからのぞく腕の肘など、骨の形が はっきり見てとれるほどだった。
病気のせいで痩せているのなら、医師として放っておけず、そうでないのなら、社会人として放っておけないレベルまで、その少女は痩せていた。

身に着けているシャツは汚れている。
冬物のコーデュロイのパンツは、お下がりなのか、サイズが合わない古着なのか、裾を幾度か折って、何とか引きずらないようにしているようだった。
髪も梳かしているように見えず、その長さが揃っていないのは、ワイルドを目指して そういうカットをしたからではなさそうである。
そして、その少女の周囲の空気は重く暗く、沈んでいた。

そんな少女を見詰めるナターシャはといえば、白い半透明のチュールで広がりを増した ミディ丈の水色のワンピースに、ウルトラマリンブルーのボレロカーディガン。
沙織に会いに行くのに選んだ、おろしたての初夏の外出着。
明るい瞳のナターシャは、生気に輝いている。
見比べると、まるで王子と乞食 ならぬ 王女と乞食。
二人の少女の決定的な違いは、ナターシャの手は 彼女のパパとマーマに握られているのに、銅像の少女は そうではない――ということだった。

あまりに落差が大きすぎて、ナターシャの保護者の方がいたたまれない気持ちになる。
だが、当の少女は、自分の身なりのことも、自分が一人きりだということも、全く気にしていないようだった。
彼女は、自分を見すぼらしいとも、哀れだとも思っていない。
飢えという切実な問題の前では、孤独であることすら、意味のない ただの事実になってしまうのかもしれなかった。

瞬は、ナターシャと繋いでいた手を解き、痩せっぽちの少女の許に歩み寄っていった。
少女の前に しゃがみ込み、少女の顔を覗き込む。
光が丘病院内で、“泣く子も黙る”と評判も高い瞬の眼差しは、幸い、病院の外でも有効だった。
「お名前は?」
瞬が尋ねると、彼女は、驚いた様子も怯えた様子も見せずに、瞬に問われたことに応えを返してきた。
その腕のように細い声で。

「チョコ」
「チョコ―― 千代子ちゃん?」
「チョコ」
本名とは思えないので、愛称なのだろう。
愛称で名を呼んでくれる人が、彼女の周囲には いるということになる。
その人は、どこにいるのか。

「一人なの? パパやママは? 迷子なのかな?」
「一人」
「おうちは? チョコちゃんは、どっちから来たの?」
「あっち」
指差したのは、瞬たちが歩いてきた 銀杏の並木道――つまり、駅からの道。
住宅のある方向ではない。
「チョコちゃんのパパとママを探そうか」
「パパはいない。ママはお出掛け」

それはどういうことなのだろう。
彼女は、一人で ここまでやって来たということなのか。
それは 不可能なことではない。
それは 不可能なことではないが、こんな小さな子に、そんなことを許す親の存在が、瞬には信じられなかった。
瞬が幼い頃、城戸邸に集められていた親のない子供たちでさえ、(主目的は、逃亡を防ぐためだったにしても)常に大人の監督下(監視下)にあったというのに。

瞬が たった一人で公園にやってきている小さな女の子の身を案じていること――瞬が恐い大人でないこと――を感じ取ったのか、痩せっぽちの少女は すがるような目で 瞬の顔を見上げてきた。
そして、
「お金、あるの。見付けたの」
と言いながら、瞬の前に右手の平を広げてみせる。

そこには、錆びて青く変色した10円玉が1枚 載っていた。
少女が、悲しい希望の光をたたえた目で、いかにも恐る恐るといった(てい)で、パン屋のウィンドウを見る。
どうすれば、この10円玉をパンに変えることができるのか、その方法が わからなくて、彼女は ずっと“公園のパン屋さん”の棚に並べられているパンを 店の外から見詰めていたのだろうか。
だとすれば、彼女は、病気で痩せているのではなく、食べたくても食べられなくて痩せているのだ。

瞬は、氷河に合図をして、その場に立ちあがった。
「ナターシャちゃん。ちょっと、パン屋さんでパンを買って、公園で食べていこうか」
「いいの? ご飯を食べれなくなるヨ?」
チョコちゃんのために そうするのだと、ナターシャも感じてはいるのだろう。
ただ、マーマの平素の言いつけを破ることになるかもしれないから――彼女は、それを案じている。
「まだ お昼だからね。晩ご飯を ちゃんと食べられるなら構わないよ。誰でも、食べなければ死んでしまいそうな時は、生き抜くことが最優先」
何よりも、生きることが最優先。
マーマの言いつけより、命の方が大切。
大事なことを ナターシャを教えることができてよかったと、瞬は思った。






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