「ナターシャ……」 にもかかわらず、ナターシャの名を呟いたきり、氷河が何も言わずにいるのは、目に見える事象として実際に起きたことを言葉で説明すると、星矢の言う通りだから。 言い訳も弁明もできずにいる氷河の代わりに動いたのは、瞬だった。 こうなると、のんびりスイカなど食べていられない。 瞬は、コーナーソファの角に座っているナターシャと 正面から向き合い、視線で 彼女の視線と意識を しっかりと捉えたのである。 「ナターシャちゃん。星矢の言うことは みんな冗談だから、本気にしちゃ駄目だよ。氷河はね、氷河は 僕を自分の―― ナターシャちゃんのマーマにするために、ナターシャちゃんを道具として使ったりしない。氷河はそんなことを考えない。氷河には、そんなことできないの。氷河は いつも行き当たりばったりで、未来のこととか、自分以外の いろんな人の気持ちとか都合とか、ほとんど考えないの。もちろん、人を道具として使うことも考えない」 それは、氷河を擁護する言葉であり、氷河の言動を弁護する言葉(のはず)だった。 が、弁護が その人の人徳を訴える言葉になるとは限らない。 「ナターシャちゃんに会った時だって、氷河は ナターシャちゃんが とっても可愛いから、自分の娘にしようと決めたんだよ。その時、氷河は、僕のことなんて これっぽっちも考えていなかった。ナターシャちゃんのことしか、見ていなかった。他のことなんか 何にも考えなかった。だって、氷河だもの。絶対だよ。僕が保証する」 「……」 瞬と向き合っているナターシャの隣り、瞬の はす向かいで、複雑怪奇な顔をした氷河が 口をもぐもぐさせながら、沈黙を守っている。 瞬の言葉(推測)が全くの事実だから、彼は何も言えずにいるのだろう。 将来のことも、周囲の反応(反対)も、あの時、氷河は全く考えていなかった。 もちろん、瞬を自分のものにするための道具としてナターシャを利用できることにも気付いていなかった。 それは事実だが、その事実は つまり、アクエリアスの黄金聖闘士には 計画性や社会性が全く備わっていないということの証左。 瞬の保証は、氷河が まるで頼りにならない男だという お墨付き以外の何物でもなかったのだ。 氷河の複雑怪奇な表情には気付いていたが、瞬は自身の発言を撤回することはしなかった。 今、最も大事なことは、氷河は ただ愛情という動機によってのみ、ナターシャを自分の娘にしたのであって、氷河がナターシャを道具として使ったことは ただの一度もないということを、ナターシャに知ってもらうこと。 氷河の傷心は、二の次三の次の問題なのだ。 瞬の再優先事案は、無事に遂行されたようだった。 ナターシャは、自分がパパの道具だったことはないという事実を理解し、認めてくれたようだった。 氷河が、ただ愛だけで、ナターシャを彼の娘にしたことも、ナターシャは わかってくれたようだった。 わかって――ナターシャは、ひどく悲しそうだった。 悲しそうに、彼女は、 「頑張って 悪い子になっても、ナターシャは パパの役に立てないの?」 と、瞬に尋ねてきた。 「悪い子になって、氷河の役に……?」 ナターシャの質問の意図が わからないのではない。 瞬は、そう尋ねてくるナターシャが悲しい目をしている理由がわからなかったのだ。 ナターシャが求めていたものは、報いを求めない氷河の無償の愛ではなく、道具として パパの役に立つことだったというのだろうか――? どうやら、そうだったらしかった。 ナターシャは、愛されることだけを求める 呑気な子供ではなかったらしい。 「ナターシャはパパが大好きだから、ずっとパパと一緒にいたいノ。ナターシャは、それだけで超幸せなんダヨ。でも、パパは それだけじゃ足りないでショ。パパは大人だし、アテナの聖闘士だし、バーテンダーのお仕事だってしてるし、こうなればいいなあって思うことが いっぱいあるでショ。パパが幸せになるために、叶えばいいことが いっぱいあるでショ。だから、ナターシャは、パパが幸せになるための道具になりたいヨ。道具って、役に立つもののことでショ。なのに、ナターシャは、パパの役に立つナターシャになれないの……」 ナターシャの悲しそうな瞳。 パパの愛情を信じ切っているにもかかわらず、彼女の瞳が悲しい色を帯びている訳を知って、瞬は胸が締めつけられたのである。 その締めつけられ方は、氷河の今の表情より複雑怪奇なものにならざるを得なかった。 幼い未就学児童のナターシャ。 30を とうの昔に超えた氷河。 氷河は、ナターシャに、報いを求めない無償の愛を注いでいる。 ナターシャも、氷河の愛を信じている。 問題は、いい歳をした大人であるところの氷河が、ナターシャを愛していることと ナターシャを愛している自分に満足しているというのに、幼い未就学児童であるところのナターシャが、パパに愛されている自分に満足せず、パパを愛し、パパを幸せにしたいと願い、そのために実際に努力までしている――ということだった。 その努力が、“悪い子になること”だったのは、たまたま そうなってしまっただけで、実は さほど重大なことではなかったのかもしれない。 無償の愛を与えるだけで満足する氷河と、無償の愛に報いたいと思い、実際に努力するナターシャと。 そのどちらが より大人なのかと言えば、それは考えるまでもなく ナターシャの方である。 パパが幸せになるための道具になりたいと訴える健気な少女を、瞬は きつく抱きしめてやりたいと思ったが、瞬は ぎりぎりのところで その気持ちを抑えることができた。 それは、氷河の仕事なのだ。 「ナターシャちゃんが元気で明るく生きていてくれれば、それだけで、ナターシャちゃんは 氷河を世界でいちばん 幸せにできる女の子だよ。ねえ、氷河」 そう言って、ゆっくりと氷河の上に移動させた瞬の視線を、ナターシャの視線が追いかける。 そこには、娘の健気に感極まって青さを増している氷河の瞳があり、 「もちろんだ」 彼は、瞬から委ねられた彼の小さな娘の身体を しっかりと抱きしめたのだった。 「瞬の言う通りだぞ、ナターシャ。ナターシャは、瞬を目標にして、世界一 綺麗で優しくて強くて賢い子になればいいんだ。無理をして悪い子になる必要はない。ナターシャが どれだけ いい子になっても、それを打ち消すくらい、俺は手間のかかる男だから、瞬はずっと俺の瞬のままでいてくれる。そして、ナターシャのマーマのままでいてくれるだろう。ナターシャが心配する必要はない」 「氷河の奴、開き直りやがった」 永久氷壁と化したスイカの前で、星矢は 頬を大きく膨らませながら歯噛みをするという、実に器用なことをした。 星矢が 食べることのできないスイカを悔しがっていられるのは、ともあれ、彼がナターシャに『悪い子になれ』と言ったという濡れ衣が晴れたから。 そして、“悪い子のナターシャ”から“いい子のナターシャ”への軌道修正も 余裕で行なえる状態だから。 ナターシャのために“ちゃんとした母親”が必要なのではないかという瞬の不安も、消えることになるだろうと思うから、だった。 幼い未就学児童に“幸せ”の心配をしてもらう30代の成人男子。あろうことか、正義の味方。 ――という情けない現実から目を背けさえすれば、とりあえず アクエリアスの氷河周辺の懸念事項は すべて消え去り、解決した。 一件落着、めでたしめでたし、なのだ。 だが、いったい どうして、氷河のように 人様に面倒と迷惑をかけるばかりの お騒がせ男が、こんなふうに誰からも愛され 甘やかされ、そして、こうも いい目ばかりを見るのか。 星矢には、その点が どうしても――どうしても どうしても、納得できなかった。 Fin.
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