「皇族と平民以外の身分がない日本で、職業で差別なんてナンセンスって思うかもしれないけど、職業の違いの根底にあるものは、学歴の違い、知能の違い、教養レベルの違い、育った環境の違い、もちろん経済力の違い。それから、挫折の有無。つまりは価値観の違い。瞬センセイとマスターは何もかもが違いすぎるのよ。瞬センセイとマスターが釣り合っているのは美貌だけ」
カウンター席についている三人の常連客(全員、40代の男性)がバレリーナの熱弁に、唸ったり、笑ったり、感心したりしている。
氷河が無反応なのは、まともに取り合う気がないからだろう。
放任主義の店主に、瞬は苦るしかなかった。

「容姿で 僕が氷河に釣り合っているというのは、さすがに過大評価だと思いますが、挫折の有無というのは どういうことでしょう?」
この店のバーテンダーと 客である医師に関して、彼女は あまりにも多くのことを誤解しているが、それらの誤解の根拠は、瞬にも理解することはできる――とまでは いかなくても、察することはできた。
だが、“挫折の有無”についての彼女の考えは わからない。
わからないので、気になった。

彼女がバレリーナの夢を諦めたばかりだというのなら、ある人物の人となりを判断するのに、それは彼女にとっては極めて重要な要素なのだろうとは思う。
だが、瞬は、氷河ほど 挫折に縁がなく、何にも縛られずに 自分の人生を自分の思う通りに生きている男を、他に知らなかった。
氷河は常に、我が意を通す男なのだ。
だが、彼女は どう見ても、瞬を成功者と見なして、氷河とは不釣り合いだと主張している。
その根拠が、瞬には わからなかった。
それはどういうことなのかと、瞬が彼女に尋ねたのは、氷河に関することで、彼女は知っているのに自分が知らない情報が何かあるのだろうかと、それが気になったからだった。

「そりゃ……瞬センセイはこれまでずっと、挫折らしい挫折を知らずに生きてきたんでしょう? 人生に挫折して、夢破れて 医者になる人なんて、いるわけないもの。で、マスターは、挫折して バーテンダーになった口よね。普通は――少なくとも子供の頃の夢は バーテンダーになることじゃなかったはず。そんな夢を持つ子供なんているわけないもの。あのマッチョな厚化粧おじさんが、ダンスレッスンやボイストレーニングをさぼってるって、マスターを叱ってたわよ。演劇、舞踊系で身を立てる夢があったんでしょう? でも、マスターは その夢を諦めた」
「ああ、そういう……」
そういうことだったのだ。
瞬には、やっと、彼女の誤解の訳がわかった。
というより、彼女が、その誤解で何を求めているのかが わかった。

彼女は、自分と同じように挫折を味わい、夢を諦めた人を見付けて、自分の心を慰めたかったのだ。
そして、挫折を知らず、夢を叶えた人を――成功者、勝利者を――傷付けたかったのかもしれない。
成功者は 成功者であるという、ただ それだけで、夢に破れた人間を傷付けてしまうのだということを知らしめ。ほんの少しだけ、ほんの短い時間でいいから、成功者の気持ちを沈ませてみたかった――のだろう。
バレエで身を立てようと本気で考えていたのなら、幼い頃から20年前後――これまでの人生のほぼすべてを、彼女は その夢の実現のための努力を続けて過ごしてきたに違いない。
その夢を失って、次の夢を見付け出せず、彼女は今、必死に足掻いている。苦しんでいる。
それこそ 一人で家で飲んでいると死にたくなるくらい、その挫折は、彼女の人生における大きな喪失だったのだろう。

しかし、彼女は誤解している。
氷河の人生に 挫折などという出来事は一度もなかったし、氷河は夢を諦めたこともない――ただの一度もない。
そもそも 氷河は、絶対に夢を諦めない男なのだ。
だが、瞬は、本当のことを彼女に知らせることはできなかった。
『あなたが自分の同類だと思おうとしている人間は、この地上世界で 一、二を争うほど 幸運で幸福な男です』という事実を知らせてやったところで、彼女は元気にはならない。
今の彼女は、他人の幸運や幸福を喜べる前向きな心境にないだろう。

「夢を叶えられずにいるのは、僕の方なんですけどね……」
せめて彼女が 自分の同類候補として氷河以外の誰かを選んでいてくれていたら、まだ対処の方法もあったのに、よりにもよって氷河。
瞬の呟きに嘆息が混じったのは、瞬にしてみれば当然のことだった。
その当然のことに、バレリーナが敏感に反応する。
彼女は、瞬の呟きに、この人は何を言っているのだろうという顔をした。
彼女は、意外に俗っぽい価値観の持ち主なのかもしれない。
彼女は、医師というのは 夢を叶えた人が従事する仕事だと思い込んでいるようだった。
そんなことがあるはずがないのに。

「僕の夢は、この地上に不幸な子供がいなくなるように、平和のために力を尽くすことでした。もちろん、夢を叶えるための努力は続けていますが、僕の願いが完全に実現する時は もしかしたら永遠に来ないのかもしれない。時々、自分の無力が悲しくなります」
幼い頃からの瞬の夢、希望、願い、生きる目的。
それを、彼女は、
「は!」
吐き出すように短い間投詞で、切って捨てた。

「瞬センセイ、もしかして、バレリーナとして世界の舞台に立つという夢を断ち切られて、挫折して、絶望の淵にいる私を、『夢を諦めたのはキミだけじゃない』だの『挫折したのはキミだけじゃない』だの、そんな ありふれたセリフで慰めてやろうとか、思ってる?」
「――」
「不幸な子供をなくしたいだの、平和のために尽くしたいだの、そんな叶うはずのない馬鹿げた夢を捏造してまで、かわいそうな女を慰めてやろうなんて、考えてる? 馬鹿馬鹿しい。そんな見え透いたこと、やめてよね。陳腐すぎて、こっちが恥ずかしくなっちゃう」
「叶うはずのない馬鹿げた夢……ですか」

瞬は、その夢を諦めてはいなかった。
いつか 必ず、その夢が叶う日が来ると信じて、これまで生きてきた。
死ぬ時まで 夢は諦めないし、死んでも諦めないだろう。
だが、その夢を、彼女に『叶うはずのない馬鹿げた夢』と断じられるのは悲しかった。
彼女のような人たちのために――戦う術を持たない人たちの夢と幸福を守るために――瞬はアテナの聖闘士としての闘いを続けているつもりだったから。
だから、その夢を彼女に否定されるのは つらい。

彼女のために、そして、彼女以外の客のために 微笑を作ろうとして、だが、瞬は その試みに失敗した。
途端に、氷河がバレリーナの前に置かれていた グラスを乱暴に取りあげ、低く抑揚のない声で彼女に命じた。
「金はいらん、出ていけ。そして、二度と来るな」
バレリーナがきょとんとして、冷たい無表情の氷河の顔を見上げる。

氷河を自分の同類と思い込み、その同情を得られると思っていた。
一緒に 成功者をいじめてくれるとまでは思っていなかったにしても、ちょっとした嫌味くらいは大目に見てもらえるだろうと、彼女は思っていたに違いない。
彼女自身は気付いていないようだったが、実際 氷河は、彼女の振舞いを かなり――氷河にしては かなり――大目に見てやっていた。
同情していると言っていいほど、優しく接してやっていた。
なにしろ、『俺は挫折などしたことはない。俺は俺の夢を現在進行形で叶えている。俺は今、世界で いちばん幸せな男だ』というセリフを、傷付いたバレリーナのために言わずにいたのだから。
だが、瞬の夢を否定したのは まずかった。

「あ……」
バレリーナは、馬鹿ではなかったようだった。
もしかしなくても、かなり馬鹿になっていたのだろうが、氷河が冷たい眼差しに触れて、本来の賢明を取り戻したのかもしれない。
「まじなの? その夢」
目の前に氷河が立ち、彼女の視界は封じられている。
少し、身体を横に ずらして、彼女は瞬の様子を窺ってきた。
まだ微笑を作れずにいる瞬を見て、彼女は それが 瞬の本当の、真実の、心からの望みなのだということを気付き、認めたらしい。
夢を否定される つらさ、夢を諦めざるを得ない苦しさを 誰よりもよく知っているバレリーナは、自分が二つ目の夢を失ったような目になって、瞬に謝罪してきた。

「ご……ごめんなさい。傷付けるつもりはなかった――ううん、傷付けたかったけど、こんなふうにじゃなかった」
実に正直な告解と謝罪。
少し、瞬は、強張っていた唇の端を動かすことができるようになった。
「成功している人、強い人、偉い人って、傷付けても許されるって思い込みがあって……ごめんなさい……すみませんでした」
「いえ、そんな……」

彼女は店の客で、瞬も一応 客として ここにいるが、どちらかというと 瞬は店の関係者としての立場の方が強い。
蘭子に預かってもらっているナターシャを受け取るために、ここに来ている身。
掛けていた椅子から立ち上がったバレリーナに腰を折られるのは、さすがに気まずさが先に立った。
その気まずさ、申し訳なさを 消し去ってくれたのは、瞬とバレリーナの間にいた常連客たちだった。

「ごく幼い子供は別として、大人と呼ばれる歳になった人間の中に、夢を諦めたことのない者は まずいないものですよ、お嬢さん」
「だが、人間は、夢や希望を持たずに生きていくこともできないから、大抵の人間が 次の夢を見付ける」
「我々くらいの歳になると、プライドが邪魔をして、挫折の事実を隠そうとするが、幾つになっても 夢はあるから、幾つになっても挫折する」
「これは、生きている限り続く、半永久運動のようなものだろうな」

夢も挫折も成功も経験してきた、自分の父親と同年代の“大人”たちに反駁していくには、自分は挫折者としても未熟者――と、彼女は思ったのだろう。
他人の人生を“こうだったに違いない”と決めつけることの愚に気付いたばかりの彼女は、人生の先輩たちの忠告を 素直に聞き入れた。
バレリーナが頷いて 椅子に座り直すと、常連客たちは 今度は氷河を なだめる仕事に取りかかった。
「氷河くん。機嫌を直して、そちらのお嬢さんにダイキリを。私からの奢りで」

バーは、極めて効率的な異業種交流の場である。
優しい人生の先輩たちと意気投合し 盛り上がったバレリーナは、これまで体型維持のために実践してきた食事療法(ダイエット)の技を、ダンサーやアスリートはもちろん 一般人のために役立て(ついでに、生活の糧にする)道の模索に乗り気になったようだった。
『また来ます!』と元気に宣言して、彼女は明るく 店を出て行った。






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