馬鹿な。
『ありがとう、瞬』で済ませるつもりなのか、氷河、おまえは。
それで済むと思っているのか。
それで すべてが丸く収まると?
馬鹿を言うな。
他の誰が許しても、そんなことは この俺が許さないぞ、氷河!

瞬が失われたということは、俺の幸福もまた 永遠に失われてしまったということだ。
俺が、二度と幸福な時間を持てないということだ。
瞬が死んだということは、俺が死んだということだ。
そんなことすら、おまえには わからないというのか、この馬鹿野郎!




この馬鹿野郎! と、声にならない声で、氷河は 自身を怒鳴りつけた。
悲しみと怒りが 氷河の周囲で、互いに争うように増大し、膨らみ、弾け、燃え上がる。
その悲憤の あまりの激しさに息ができなくなり、肺が詰まる感覚に 殴りつけられるようにして、氷河は目覚めた。
自分がどこにいるのか、今はいつなのかを思い出せず、その場で、しばらく ぼんやりする。

場所は、宗像三女神を祭っている神社のある海ではなく、東京の光が丘のマンションの一室。
瞬が死んだのは真冬だったのに、カーテン越しに感じる陽射しは、冬のそれとは思えないほど 力強く、熱い。

終わりかけているとはいえ夏なのだから、陽射しが強いのは当然である。
昨日は日曜だった。
土曜の夜の店の掃除は 平日より念入りに行なって、朝の4時に帰宅。
数時間 眠って、起床。
9時にナターシャと公園に出掛けた。
暦の上では とうに秋なのに、一向に和らぐ気配のない暑さのせいで、公園で遊ぶのは午前中か夕方にするよう、瞬から厳しい お達しが出ているのだ。
秋冬春に公園タイムだった時間帯は、今は お昼寝タイムになっていた。

そのお昼寝も、変化がないと ナターシャが飽きて 眠る気になってくれないので、いろいろなパターンをローテーション化して試している。
部屋を変えてみたり、ハンモックを吊るしてみたり、寝室のベッドではなく リビングルームのソファベッドで眠らせてみたり。
ナターシャの最近のお気に入りは、“畳の上で、パパと一緒に大の字でお昼寝”だった。
フローリングの床に敷くことのできる4畳半の畳をリビングルームに敷いて、その上に大の字になって昼寝をするのである。
パパは大きな大の字。ナターシャは小さな大の字。
小さな大の字という矛盾が、ナターシャは楽しくてならないようだった。

「大の字は、『大きい』の『おお』と おんなじ字ダヨ。大当たりの大で、大盛りの大で、大喜びの大だよ。それからネ、大の字は、『たい』って読むこともあるんダヨ。大気の大で、大変の大で、大切の大。大の字は、大宇宙の大で、大自然の大で、大人気の大ダヨ」
「『おお』で『たい』で『だい』か。ナターシャは大の字博士だな」
「マーマが教えてくれたんダヨ。ナターシャ、世界中の大の字を読めるヨ。ナターシャ、毎日 お利口になっていくヨ!」

ナターシャが“毎日 お利口になっているナターシャ”をアピールするのは、パパの好みのタイプが“綺麗で、優しくて、賢くて、強い”だということを知っているからである。
“綺麗で優しい”子は、パパに愛してもらえる。マーマのように。
“賢くて強い”子は、パパに必要としてもらえる。マーマのように。
パパと幸せな日々を過ごすために、自分は何をすべきなのか。
ナターシャは、それを 心得ている少女だった。

ナターシャは、他の昼寝の時には 氷河を昼寝に付き合わせようとすることはないのだが、“畳の上で大の字”の時だけは別だった。
“畳の上で大の字”のお昼寝は、パパが作る大きな大の字と、ナターシャが作る小さな大の字が揃っていることが重要らしい。
そんなナターシャに付き合って、昨日は氷河も昼寝をした。

夜も――日曜の夜は店が休みなのだが、瞬もナターシャも眠っているのに 自分だけ起きていても詰まらないので、特段 眠いわけではなかったのだが、ベッドの瞬の隣りに潜り込んだ。
そして、特段 眠いわけでもないので、眠らなかった。
本当は 2、3日程度なら一睡もしなくても平気な瞬に ちょっかいを出して――意外に いい感触だったので、調子に乗った。
といっても、性急に むしゃぶりついていったのではなく、むしろ その逆。
意識して、殊更 丹念な愛撫を施し、最初の挿入まで 平生の4、5倍の時間をかけた。

どうすれば より深い快楽を得られるのか、どうすれば より大きな快楽を与えられるのか。
すべてを心得ていて、いつも二人に最上等最上質の快楽と満足を もたらしてくれる瞬が、夕べは珍しく、主導権を完全に氷河に受け渡していた。
じれったいほど緩やかで和やかで心地良い愛撫の中に いつまでも たゆたっていたいと望む気持ちと、痛いほど熱く激しい衝撃を求める気持ちの間で、どちらを優先させるべきなのかの判断に、瞬は迷ってしまったようだった。
瞬にしては珍しいことだったので、楽しくて、つい いつまでも焦らし続けてしまった。

楽しかったことは憶えているが、いつ眠ったのかは憶えていない。
瞬を あそこまで 自分の思い通りにできたのは、おそらく十代の頃以来。
滅多にない事態に浮かれ、驚き、それで、あんな夢――事実と違う、あんな夢――を見てしまったのだろうか。

アイザックの死から半年以上。
『今は月曜の朝だ』
氷河は、確実な事実を自分に言い聞かせて、今 見たばかりの夢を忘れようとした。
事実と違う不吉な夢など、憶えていても何にもならない。
しっかり覚醒して、無益な夢のことは忘れてしまおう。
瞬が死ぬ夢。
瞬がナターシャの父の我儘のために 死ぬようなことなど あるわけがない。あってはならない。
そう思った途端、どこからか、『アイザックなら、いいのか』という声が聞こえてきた。
そして、氷河は、はっきり覚醒した。






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