ホテルのバーなら ともかく 町場のバーに――それも、バーテンダーが一人で まわしているような小規模なバーに――閉店時刻というものは、あってないようなものである。 氷河の店にも 一応、開店は18時30分、閉店は24時という、お約束の時刻はあったが、定刻に店を閉じることができるのは、せいぜい週に3日。あとの3日は、翌日1時2時になってしまうのが常だった。 ちなみに、定刻閉店の3日でも 定刻より遅くなる3日でもない日は、日曜の定休日。 形だけとはいえ、閉店を24時と定めているのは、客が終電に間に合うようにという配慮から。 その配慮を無下にしてくれるのもまた 客の方だったが。 バーの閉店時刻は、最後の客が帰った時。 そして、バーの客には、閉店時刻を気にする客と気にしない客がいる。 前者は、終電に乗りたい客。 後者は、最初から終電で帰る気がなく、タクシーで帰ることやホテルに泊まることを前提にしてバーに乗り込んでくる客。 終電に乗る必要がないにもかかわらず 閉店時刻を気にしてくれるのは、比較的 常連客に多い。 バーの常連客は 図々しくならない――他の店は どうか知らないが、氷河の店はそうであるようだった。 瞬は、そう聞いていた。 24時に店内に客がいなくなれば、氷河は、翌日の開店準備を翌日にまわして、終電で帰宅する。 翌日1時2時まで ねばる客がいた場合は、後片付けを念入りに行ない、翌日の開店準備をしながら、始発を待つ。 もちろん、聖闘士の力を使えば、一瞬で自宅に帰ることはできるのだが、人命に関わる事態以外で その力を使うことを、瞬は氷河に固く禁じていた。 今日は 朝帰りになる旨、日付が変わった頃に、氷河からのメッセージが スマホに入っていた。 始発で帰ってくる場合は、氷河が 家に着くのは4時半過ぎ。 今頃、氷河は、光が丘の駅を出て、公園の遊歩道をマンションに向かって急いでいる頃だろう。 起きて出迎えると、氷河が 嫌がるので、眠ったままでいる。 帰宅した氷河がベッドにもぐりこんできたら、『おかえりなさい』と『おやすみ』を言ってやればいい。 それから、1、2時間 一緒に眠り、起床して朝食の準備に取り掛かる。 それが、氷河が始発帰り、瞬が夜勤でない日の二人のタイムスケジュールだった。 このままベッドで氷河を待っていれば、いつも通りに時間は流れていく――と思っていたのに、微かに氷河ではない人間の気配がする。 ナターシャの部屋でも 玄関でもなく、リビングルームの方で。 瞬が、ベッドから起き出して、その微かな気配のする方に向かうと、リビングルームには 氷河でも泥棒でもない人間―― ナターシャがいた。 時刻は朝の4時半である。 もちろん、まだ日は昇っておらず、小さなセーフティライトが灯っているだけの室内はまだ ほの暗い。 照明をつけずに済ませるために、外の光に頼ろうとして、カーテンを開けたのだろう。 ナターシャは、そのカーテンにしがみつくようにして 床に座り込み、ぼんやりと外を眺めていた――ようだった。 「ナターシャちゃん? どうしたの? 具合いが悪いの? おなかでも痛くなった?」 「ううん。パパは?」 「氷河はまだだよ、そろそろ帰ってくると思うけど……」 「ナターシャ、パパが帰ってきてたら、パパが おねむする前に、『おかえりなさい』を言おうと思ったんダヨ。それと、『おはよう』と『おやすみ』と……」 両腕でカーテンに しがみついているナターシャは、そのまま床にずり落ちて、そこで眠り込んでしまいそうだった。 何度も完全着地し、そのたび 離陸を試みているのだが、なかなか飛び立つことができないナターシャの瞼。 ナターシャは、7割方、眠っていた。 「お空に、細い お月様がいる……」 「うん。有明の月だね」 おそらく ナターシャは、帰宅した氷河に 今日最初の『おかえりなさい』を言おうと決めて、昨夜 眠りに就いたのだろう。 その計画を実行に移すために、まだ日も登っていない深夜と早朝の境界の時刻に、夢うつつの状態で 彼女はベッドから起き出してきたのだ。 ナターシャは、油断すると閉じたままになってしまいそうになる瞼を、一生懸命に開けようとしているようだった。 「ナターシャ、パパに『おかえりなさい』を……」 がくんと、ナターシャの頭が下に垂れ落ちる。 瞬は慌てて、床に ぶつかりそうになったナターシャの頭を抱きとめた。 このままリビングルームで、パジャマのままで、氷河の帰宅を待つことを許すわけにはいかない。 10月の日の出前の時刻は、十分に寒い。 瞬は ナターシャの身体を抱き上げて、彼女の部屋に移動しようとしたのである。 そこに、氷河が帰ってくる。 「パパ……」 ナターシャは、9割9分、眠っていた。 彼女は、氷河の帰宅に気付いて、氷河に呼びかけたのではなく――彼女の夢の中のパパを呼んだのだ。 氷河は、リビングルームにいる瞬の姿に目をみはり、その腕の中に ナターシャがいることに気付くと、瞬時に顔の神経を緊張させた。 「ナターシャ !? 何かあったのか !? 」 「何でもないよ」 瞬が ごく小さな声で そう告げたのは、氷河に大声を出してナターシャの眠りを妨げないように させるため。 囁き声で、瞬はナターシャの無謀で健気な早起きの事情を、氷河に知らせた。 「ナターシャちゃん、今日、氷河が眠る前に、氷河に『おかえりなさい』を言いたかったらしいんだ。そのために、一人で起き出して、氷河が帰るのを待ってたみたいで……」 ナターシャは瞬の肩を枕に うつらうつらしている。 瞼を開けるのも、もう無理のようだった。 「まだ暗いから、明るくなるまで、もうちょっと、ちゃんとベッドで眠ろうね。こんなところで、眠ってたら風邪をひいちゃうよ」 「ん……パパ、おかえりなさい……」 頷いているのか、睡魔に負けたのか。 ナターシャが『おかえりなさい』を告げたパパは、完全に ナターシャの瞼の裏にいるパパだった。 ナターシャを子供部屋に運ぶ瞬のあとを、氷河がついてくる。 瞬が、長い髪を枕の上に流して、ベッドに横にしたナターシャの身体の上に、氷河が 毛布を引き上げた。 パパが大好きで、1回でも多く、パパに『おかえりなさい』『おはよう』『おやすみなさい』を言いたい娘。 いつも通りに7時に起床して 数時間待てば、パパに『おはよう』を言うことができるのに、それだけでは足りないほど、ナターシャはパパとのイベントを欲している。 それだけ慕われれば、氷河も本望だろう――と、幸せな父娘を、瞬は微笑ましい気持ちで見守っていたのである。 氷河は さぞや鼻の下を長く伸ばしているだろうと思っていたのに、氷河の横顔は 意外や険しかった。 瞬は、少し 嫌な予感がしたのである。 |