「デリート ドットコム株式会社の 氷河様ですね」
グラード系列のホテルのティーラウンジに入っていくと、氷河が手を上げる前に、黒のお仕着せを着たコンシェルジュだかウェイターだかわからない若い男が近付いてきて、浅く首肯した氷河を、見事に喜色のない微笑を浮かべて 庭に面した席まで案内してくれた。
“氷河”を苗字と思っているのか、ファーストネームと思っているのか、本名と思っているのか、ビジネスネームと思っているのか、こういう時、氷河は つい訊いてみたくなる。
困惑する様子も見せてもらえなかったら空しいので、さすがに本当に訊いてみたことはなかったが。

お茶を飲むために予約を入れるようなことは、生まれて この方、一度もしたことがない。
沙織が手配したのだろう。
前もって、それほど きっちり段取りをつけておいてから会わなければならないような相手なのかと、氷河は内心 うんざりしたのである。
こちらはまだ20歳にもなっていない青二才。子供である。
向こうは、その倍。最低でも30は超えているのだろう。
そんなことを考えながら、テーブルまで15秒。

氷河は大抵、外出の際の移動時間は、自分に向けられる好奇(と羨望とやっかみ)の視線を無視するために費やす。
ティーラウンジの入り口から 待ち合わせの相手が着いているテーブルまで移動する時間を、その作業に使わずに済んだ理由に 氷河が気付いたのは、その15秒が通り過ぎた直後。彼が今日“お会い”する相手の姿を認めた時だった。
ティーラウンジにいた他の客たちが 氷河の登場に気付かなかったのは、彼等の意識を 先客が奪ってしまっていたからだったのだ。
それも道理。
氷河のように金髪碧眼の美形は、探せば いくらでも見付かるだろうが、人間なのか妖精なのか わからない、少年なのか少女なのか わからない、華やかなのか 控え目なのか わからない、可憐なのか凄艶なのか わからない、薔薇なのか カスミ草なのか 桜なのか わからない摩訶不思議な生き物は、この地上世界に その一体しか存在しないに決まっている。

見られることにのみ慣れている氷河でさえ、息を飲んだ。
何が不思議と言って、これほど印象的なのに、強い自己主張を感じさせないところが不思議である。
それは彼(彼女)の力のせいなのか、対峙する側の人間の感性の問題なのか。
テーブルの脇に立ったまま、氷河が いつまでも席に着かないので、氷河を案内してきたウェイターが その場を立ち去れずにいたらしい。
彼が 動作の遅い客に苛立つ様子を見せなかったのは、彼がプロのホテルマンだからではなく、氷河が 愚図ついていれば、それだけ長く デリバー ドットコム代表の姿を見ていられるからだったに違いない。
氷河が席に着くと、彼は 少し残念そうな仕草で メニューを差し出し、未練を感じさせる足取りで その場を立ち去っていった。

「はじめまして。僕、デリバー ドットコムの代表を務めている瞬といいます」
声を聞いても、少年なのか少女なのか、薔薇なのか カスミ草なのか 桜なのか わからない。
先に 瞬の方が口を開いたのは、一応 目上の氷河が いつまで経っても名前すら名乗らずにいたからだったろう。
目上。
デリバー ドットコム社の代表は、どう見ても氷河より年下だった。
「デリート ドットコムの氷河だ」
名乗り終えてから、声がかすれているのではないかと気にしても、どうにもならない。

瞬が氷河を見て、
「お若い」
と言い、氷河は それに、
「若すぎる」
と返した。
瞬からは、
「学資稼ぎのために始めた仕事ですので」
という、若さと起業の理由を同時に説明する答えが返ってきた。

ぬるま湯か お花畑か――どんな おめでたい環境で育った人間が、どんな腑抜けたツラで、『届けたい思いはありませんか』などという感傷的なフレーズを振りかざし、“思いを届ける”仕事をしているのか見てみたい。
そんなことを考えながら、この対面の場にやってきたのに。

「どんな希望も持てないような環境で つらい思いを味わって生きてきた方が、一人の人間が生きていた痕跡をすべて消す仕事を思いついた。……そんなふうに想像していたのに、とても健康そうで 驚くほど綺麗な人が登場したので、びっくりしてしまいました」
お花畑育ちと言われれば、そうなのかもしれないと思わないでもないが、甘えた性質は感じ取れない表情と声で、瞬は そう言った。

「……」
薔薇なのか カスミ草なのか 桜なのか わからない、人間なのか妖精なのか わからない摩訶不思議な生き物に、『綺麗』と言われることのきまりの悪さ。
それを表情に出し、言葉にもしようとした氷河を、
「僕と同じに両親の許で養育されたのでないにしても」
と言って、瞬が遮る。

「ということは……おまえも、グラードの養護施設で育てられて、財団に起業のプランを提出し、資金を出してもらった口か」
注目に値する成長率を示しているとはいえ、市場に上場しているわけでもない零細企業について、沙織が妙に詳しいと思っていたのだが、どうやら そういうことだったらしい。
デリート ドットコムと デリバー ドットコムの起業の経緯は、全く同じ。
資金の出どころも同じ。
沙織は おそらく、氷河のデリート ドットコムを成長させるために 瞬と会うことを氷河に勧めたのではなく、デリート ドットコムの代表と デリバー ドットコムの代表を会わせることが グラード財団の益になると考えて、この対面を画策したのだ。
瞬は氷河に頷き返してきた。

グラード財団の創設者である城戸光政は戦災孤児で、その才を見込んだ篤志家に 生活費や学費の面倒を見てもらい、大学卒業後は その篤志家に 起業のための資金まで出してもらって、アジア随一、世界有数の巨大複合企業体を作り上げた。
それがグラード財団で、“グラード”というのは その篤志家の名前である。

その経験から、光政自身も、主に両親を失った子供たちを養育するためのオーファン・ファンドを設立し、全国に複数の養護施設を展開、多くの孤児を養育、その自立に力を注いでいる。
グラードの養護施設と地方自治体主体の養護施設の最大の相違点は、グラードの養護施設は、施設で育った子供の高校卒業後、才能のある子供に起業の資金を出資してくれる点。
氷河は、城戸光政の設立したファンドに デリート ドットコムの起業プランを提出し、審査を通過して、企業のための資金提供を受けたのだ。

最初はグラードの法律事務所内のサービスの一環として、クライアントをまわしてもらっていたが、その後、正式に 別法人として独立。
瞬のデリバー ドットコムも、ほぼ同じ経緯で現在に至ったということだった。
瞬は 本来は医師志望で、デリバー ドットコムの起業は、自分で学費を稼ぐためだったらしい。
が、いざ 始めてみると、デリバー ドットコムの仕事は 非常に やり甲斐があり、やめるにやめられず 悩んでいるのだと、ひどく 真面目な顔で 瞬は氷河に打ち明けてきた。
「廃業することは沙織さんが許してくれそうになくて……。社員を雇って事業を継続すればいいことはわかっているんですけど、それも心配で……」
薔薇か カスミ草か 桜か――ともかく、瞬の笑顔は花のようだった。
たとえ、それが苦笑でも。

世界に一輪だけの特別な花のせいで、真昼のホテルのティーラウンジは、突然、19世紀の英国かフランスのサロンかティーパーティ会場になったようだった。
噂話を仕入れにきた紳士淑女連中が、好奇心丸出しで、氷河たちが着いているテーブルに、ちらちらと視線を投げてくる。
薔薇なのか カスミ草なのか 桜なのか 判断の難しい綺麗な花が、それらの視線に 少し居心地が悪そうな苦笑を浮かべ、コスモスの花のように揺れた。

「その美貌を活かした仕事に就かないなんて」
「なに」
「と言われませんでした?」
「……」
「そんな侮辱されたような お顔をなさらないでください。僕も同じことを言われたんです」
瞬はデリバー ドットコム社を立ち上げるにあたって、オフィスの賃貸料、パソコン等のネットワーク環境構築費用等、300万のスタートアップ資金をグラード財団から提供されたのだそうだった。
そして、
「その時に、芸能関係に打って出るなら、グラード・エンターテインメントから5000万レベルの売り出しプロジェクトを立ち上げると言われたんです。僕には、芸能方面の才能なんて、かけらもないのに、いったい何をさせるつもりだったんだか……」

似たようなことを、氷河も言われていた。
言われた時に感じた珍妙な気分を憶えているだけに、氷河は、『しかし、その姿には見る価値と見せる価値があるぞ』と、自分が思ったことを正直に言葉にするわけにはいかなかった。
その言葉を、氷河は口にしなかった。
とても言いたかったのだが、それは我慢して、実際に瞬に会う前から訊きたかったことを訊いてみる。






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