沙織は、氷河に、デリバー ドットコムの成長の秘訣を探り、デリート ドットコムの業績向上に役立てるようにと言って、瞬との面談を勧めた。
しかし、彼女は、瞬には、二人は互いの業務内容を補完し合うビジネスパートナーになれるのではないかと言って、氷河との対面を勧めたらしい。
氷河のデリート ドットコムは、グラードの法律事務所が入っているビルと階違いのフロアに、パソコンを置くだけの事務所を構えていたが、瞬のデリバー ドットコムは、グラード系列のホテルの本館1階のサービスフロア、花屋と写真スタジオの脇に実店舗を構えていた。
もちろん 仕事の依頼は ほとんどネット経由で入ってくるのだが、オンライン上の情報を削除すればいいだけの氷河の仕事とは異なり、瞬はクライアントから 手紙や物品を預かることもあるので、交通の便が良く格式高いホテルのフロアに窓口を設ける必要があったらしい。

氷河の事務所から瞬の事務所までの距離は、徒歩10分。その内5分は、ホテルの敷地内を歩いている時間である。
氷河が、1日と間を置かず――つまり、ほぼ毎日――瞬の事務所に通うようになったのは、
「そうでもしないと、誰とも口をきかずに一日が終わってしまうから」
という、理由になっていない理由のためだった。

氷河の仕事は、パソコンの前にいなくても支障なく遂行できる。
クライアントからの依頼のメールはモバイル機器に転送されるし、クライアントの死亡が確認されたら、24時間後に クライアントのパソコンやスマホに入り込んでデータを消去、更にインターネット上のクライアントに関する情報を片端から削除するだけなのだ。
クライアントが直接 訪ねてくることもある瞬の仕事とは違って、氷河の仕事は時間と場所の融通がきいた。
そんな氷河の訪問を、瞬は いつも笑顔で出迎えてくれていたのだが。


その日、デリバー ドットコムのオフィスのドアを開けた氷河を出迎えてくれたのは、瞬の思案顔。
どうしたのかと 氷河が尋ねると、クライアントの一人の死亡が確認されたので、契約の履行に取り掛かろうとしたのだが、その依頼を実行していいのかどうかを迷っている――とのことだった。

クライアントは40代半ばの元看護師の女性で、昨日 乳癌で死亡。
既婚。しかし離婚。家族はなく、一人暮らし。
頼れる身内がないので、瞬のデリバー ドットコムへの依頼を考えたのだろう。
その死を確認した瞬は、彼女から預かっていた封筒を開封し、自分の死後 届けてほしいと頼まれていた手紙と 届ける相手の情報を記した書類を手にしたのだが。
届けてほしい二通の手紙には、20数年前に彼女が都内某所の中堅病院の産婦人科で、二人の赤ん坊を取り替えた事実を記した告白文が添えられていたのだ。
その告白文の最後には、『当人 及び その両親に、事実を知らせるべきか 知らせない方がいいのかの判断を、デリバー ドットコム社に一任する』という一文が記されていた――のだそうだった。

なぜ赤ん坊を取り替えたのか、その理由は書かれていない。
ただ、自分が取り替えた子供たちのことは ずっと気にかけていたらしく、20数年前の赤ん坊たちの現住所は 調べてあった。
これまでは、届けてほしいという依頼ばかりで、届けるか否かの判断までを委ねられたことはない。
彼女の依頼に どう対応すべきか、デリートすべきか、デリバーするべきか、決めかねている。
――と、瞬は思案顔で氷河に相談してきたのだ。

「俺に頼むと、問答無用で すべてをなかったことにするからな」
依頼人がデリバー ドットコムに判断を委ねているのであるから、このまま何もしなくても、瞬が契約違反をしたことにはならない。瞬は、契約を完全に履行したことになる。
それでは あまりにも無責任と感じるのなら、何も考えずに、依頼人から預かった告白文を二つの家族に郵送するという手もある。
それで 瞬は、依頼人のために 仕事をしたことになるだろう。
瞬の依頼人のしたことは、未成年略取という重大な犯罪だが、その犯罪を犯した人間は既に死亡。
犯罪自体も、とうの昔に時効を迎えているのだ。
瞬には、一社会人としての通報の義務もない。

何もしないか、預かった手紙を郵送するか。
瞬は そのどちらでも 好きな方を選べばいいだけである。
氷河なら、何もしない。
が、瞬にも そうするよう、安易に勧めることは、氷河にはできなかった。

瞬は、恐れているのだ。
自分が何らかの行動を起こすことで、あるいは 何もしないことで、幸福な家庭が壊れてしまうことを。
真実を知ることで、あるいは 知らずにいることで、家族が傷付くことや不幸になることを。
人間にとって、幸福と真実は どちらが より大切なものなのか。人間は 幸福と真実のどちらに より大きな価値を置くものなのか。
偽りの上に築かれた幸福は、真の幸福といえるのか否か。
瞬は、その判断ができずに悩み、迷っている。

『どうせ見知らぬ他人。放っておけばいいじゃないか』と瞬に言うことは、氷河にはできなかった。
“放っておく”ことが、瞬にはできないのだ。
そして、この案件を、誰も不幸にせずに完了するまで、瞬は ずっと この件について 思い悩み続けるだろう。
瞬を そんなふうにしておくことはできない。
できないと、氷河は思った。

「瞬、その二人の子供の名前と住所のデータをくれ。調べてみたいことがある」
「え? あ、でも……」
それが クライアントから預かった個人情報だったので、しばし 瞬は、そのデータを氷河に見せることを ためらった――ようだった。
「伊達に 個人情報を消してまわる仕事をしているわけじゃないんだ。個人情報の扱いは心得ている。おまえにも、もちろん その二人にも迷惑はかけない」
氷河が そう言うと、瞬は微笑して、クライアントの残した書類を、氷河に開示し、写真に撮ることを許してくれた。
「信じてますよ、もちろん」

瞬に そう言ってもらえるほど、自分を信頼の置ける人間だとは思わない。
だが、瞬が そう言ってくれるのだから、その信頼を裏切るわけにはいかないと思う。
氷河は、瞬から得た情報を元に、取り替えられた二人の子供(既に成人している)と その家族の現況を調べ上げたのである。
クライアントのデータを すべて消し去るデリート ドットコムの業務遂行に必要なハッキングの技術を駆使し、二人の子供と その家族のパソコンやスマホのデータを舐め尽くして。






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