「瞬」
「瞬ちゃんだー」
翌日曜日。
氷河の家を訪ねた瞬は、氷河とナターシャの大歓迎を受けた。
氷河は、瞬の顔を見て 明らかに ほっとしていたし、ナターシャはナターシャで、遠出した先の遊園地で迷子になった子供が、偶然 見知った大人の顔を見付けたような目を、瞬に向けてきた。
おそらく――瞬が来るまで、この家で、二人は緊張して過ごしていたのだ。
そこに三人目の人間が来て、張り詰めていた二人を繋ぐ緊張の糸が緩んだ。
家族ではない人間の訪問を受けたら、大抵の人間は 逆に緊張するものだろうに、全く逆。
これは確かに、二人には 迅速な手当てが必要そうだった。

瞬は持参した葡萄のタルトを氷河に渡し、
「氷河、飲み物はよろしく」
と言って、さりげなく(ナターシャに気取られぬよう)氷河に席を外しているよう合図したのである。
氷河は、幼い子供より不器用で、彼のライフスタイルを変えることは、まず できないだろう。
もちろん、努力はするだろうが、氷河に、『毎日24時間、お陽様のような笑顔を維持し、1日に5回は 子供が喜ぶような冗談を言うように』と命じるのは酷である。
ここは、ナターシャの若さと柔軟さに期待するしかなかった。

勝手 知ったる仲間の家。
家の主である氷河にはキッチンに行ってもらい、客人である瞬は ナターシャと二人でリビングルームに移動。
そうして、L字型のコーナーソファに、斜めに向かい合って座る。
「ナターシャちゃん、元気にしてたかな? ほっぺは薔薇色で、身体の調子はよさそうだけど」
手を伸ばして、瞬が ナターシャの頬に触れると、
「瞬ちゃーん」
ナターシャは、その腕にしがみつくようにして、もぞもぞと座る場所をずらし、瞬のすぐ側に ぴったりと くっついてきた。

「どうしたの? 何だか、ナターシャちゃんが元気がないって、氷河が すごく心配してるんだよ」
右手で肩を包み、その小さな身体を引き寄せて、瞬はナターシャに尋ねた。
ナターシャは何も答えない。
「氷河の作る ごはんが美味しくない?」
ナターシャは、額を瞬の腕に押しつけて、ぶんぶんと首を横に振った。
「氷河が選んでくれる お洋服が、ナターシャちゃんの好みじゃないの?」
これにも、ぶんぶん。
「もしかして、おうちが どこか不便なのかな?」
また、ぶんぶん。

「じゃあ、どうして元気がないの? 氷河は、自分がナターシャちゃんに嫌われてるんじゃないかって、しょんぼりしてるんだよ」
これには“ぶんぶん”では答えにならなかったので――ナターシャが初めて、言葉で質問に答えてきた。
そして、その答えは、ナターシャの国語力を疑いたくなるほど、おかしなものだった。
ナターシャは、暗く沈んだ顔で、ほとんど泣きそうな声で、
「パパはナターシャを嫌いナノ。ナターシャはパパが大好きなノニ」
と答えてきたのだ。
キッチンで氷河の小宇宙が揺れる。

キッチンで全身を神経にしてリビングルームの様子を窺っている氷河は、ナターシャのその答えにショックを受けた――というより、意味が わからずに混乱しているようだった。
意味がわからないのは、もちろん、ナターシャが口にした言葉そのものの意味ではなく、ナターシャが そんな言葉を口にするに至った経緯、その背景の方である。
それは、瞬も同じだった。

「氷河はナターシャちゃんを大好きだよ」
「嫌いナノ。ナターシャがパパのほんとの子供じゃないカラ」
氷河の小宇宙は、爆発寸前である。
ぎりぎりのところで爆発せずにいるのは、爆発しても事態が好転するわけではないことを、氷河が知っているからだったろう。
だが、それでも、爆発してしまいたい! と、氷河の小宇宙は叫んでいた。
氷河は今、例えるなら、痴漢の濡れ衣を着せられた生真面目だけが取りえのサラリーマンのような気分を味わっているのだろう。
否、痴漢の濡れ衣を着せられた生真面目サラリーマンより 更に得心できず、その100倍 混乱していたかもしれない。
ナターシャの認識は、事実と真逆。完全に逆、何もかもが逆、なのだから。
必死に、懸命に、決死の思いで爆発せずにいる氷河のために、瞬は すぐさま、ナターシャの誤解を解く作業に取りかかったのである。

「それは誤解だよ。氷河は とってもとってもナターシャちゃんのことを好きだよ。本当に大好き。それは 僕が保証する」
「でも、だったら、どうして パパは、ナターシャが何を話しても、『ん』と『ああ』と『そうか』しか言ってくれないノ?」
「え」
「パパは ナターシャが何を言っても、何をしても笑ってくれないノ。お手伝いしても 喜んでくれないし、わざと いたずらしても、怒ってもくれないし」
「それは……」
それがナターシャの誤解の原因なのか。
だとしたら、それは、至極尤もな誤解であり、至極尤もな誤解の理由である。

それはそうだろう。
大人でも 気後れし 及び腰になる氷河の無表情。
しかも 氷河は、自分の無表情を言葉で補うこともしない。
そんな氷河と相対することは、ナターシャを、東大寺の金剛力士像と対峙しているような気持ちにしてしまうに決まっていた。

「キッチンを水浸しにしても、氷河は ナターシャちゃんを叱ってくれなかったんだね?」
「ウン。黙って、床の上の水を凍らせて、集めて、捨てただけ」
「氷河は ほんとにひどいね。ナターシャちゃんは 一生懸命 頑張って 悪い子の振りをしたのに」
笑ってはいけないと思うのに、つい くすくすと笑い声が洩れてしまう。
氷河がどんな表情で、どんな気持ちで、水浸しのキッチンの後片付けをしたのか。
想像するだけで、瞬は楽しくなってしまった。

叱らなければならないのに、可愛くて叱れない。
いたずらな娘を叱れない自分を情けないと思いつつ、黙って娘のいたずらの後始末している氷河は、どんなに幸せなパパだったことか。
いっそ、『ナターシャちゃん、氷河を幸せにしてくれて ありがとう』と言って、瞬はナターシャを抱きしめてやりたかったのである。
しかし、瞬の喜びが、ナターシャには理解不能。
楽しそうに笑う瞬を、ナターシャは不思議そうな目をして見上げてきた。

「それ、楽しいことナノ?」
「あ……うん、ううん。ナターシャちゃんは、そんなに氷河に叱ってほしかったの?」
瞬に問われたナターシャは、一瞬だけ、答えに迷ったようだった。
そして、決して氷河に叱られたかったわけではない事実を、瞬に打ち明けてくる。

「ナターシャ、ほんとは パパに褒めてもらいたい。褒められるのが いちばんいいけど、パパは笑わないし……。テレビで言ってたんダヨ。人は、笑わせるのが いちばん難しいんだっテ。泣かせるのが次で、怒らせるのが いちばん簡単なんだっテ」
「だから、いちばん簡単なところから やってみようと思った?」
「ウン」

本当は、氷河に褒められたい。
叱られるのは次善の策。
ナターシャは とにかく、無表情以外の何か、そして、『ん』『ああ』『そうか』以外の言葉を、氷河に求めていたのだ。
だが、失敗した。
ナターシャは、自分がなぜ失敗したのか、その理由が いまだに わからずにいるらしい。
一生懸命 考えたのだろうに、わからないままのようだった。

「パパは瞬ちゃんのことは大好きみたい。瞬ちゃんと一緒の時は、むすっとしてなくて、ちょっと笑うから。瞬ちゃんを見てる時は、嬉しそうで、ほわんとしてる。ちょっと拗ねたり、我儘言ったりもするヨネ。それに、こないだ、キスしてた」
「えっ」
ぎくりと、肩と頬が強張る。
“こないだ”とは、いつのことだろう。
ナターシャには気付かれぬようにと細心の注意を払っている黄金聖闘士二人の隙を衝くとは、ナターシャは ただ者ではない。
乙女座の黄金聖闘士ともあろうものが、この件ばかりは、ごまかし笑いを浮かべて、逃げを打つしかなかった。

「氷河はナターシャちゃんのことを大好きだよ。それはほんと。僕の言うこと、信じられない?」
「瞬ちゃんは 嘘は言わないと思う。デモ……」
瞬ちゃんはパパに特別 優しくしてもらえているから、パパに嫌われているかもしれないという不安とは無縁だから、軽い気持ちで そんなふうに言うことができるのだと思っているナターシャの顔。
ナターシャは、人間の言動や その結果として起こる事象を 注意深く観察し、その意味について洞察することができる少女のようだった。
ナターシャは、“考えずに済ませる”ことをしない。
“考えずに済ませる”ことができないほど、ナターシャにとって “自分がパパにどう思われているのか”という問題は、重大な問題なのだ。
ならば瞬も、この問題を なざなりに片付けるわけにはいかなかった。






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