「鑑定結果を公にして、僕たちと争うようなことはしないと思うけど――彼は もうナターシャちゃんのDNA鑑定を始めていると思うよ。ナターシャちゃんは、大使館でケーキやジュースをご馳走になっている。グラスやフォークから採取した唾液で、鑑定はできるから」
その日、帰宅してナターシャを昼寝させた瞬は、氷河が その事実をブロン氏から知らされて激怒する事態を避けるために――瞬自身が、氷河に告げた。

ナターシャのパパとマーマに無断で勝手にそんなことをするとは!
一瞬、氷河の小宇宙は怒りで凍てついたが、氷河は その怒りを、この場にブロン氏はいないというのに、露わにすることはしなかった。
代わりに、瞬に尋ねてくる。

「ナターシャと同じ例は他にはないだろうが――たとえば、臓器移植をすると、その人間のDNAはどうなるんだ? 受容者のDNAに同化する――変わるのか?」
「変わらないよ。レシピエントに同化することはない、その部分だけ、異なるDNAのままでいる。臓器移植手術を受けた人は、普通は免疫抑制剤を一生 飲み続けるんだ。そうしないと、免疫機能が 移植した臓器を異物と判断して、拒絶反応が出てしまうから」
「ナターシャの場合は――」
「ナターシャちゃんの場合は、何もかもが特別なんだよ。フィリップスさんが、ナターシャちゃんの身体と魂はアルケウスで結びついていると言っていたそうだけど、肉体の接合については―― ナターシャちゃんが生きているのは、本当に奇跡なんだよ」

その奇跡は、おそらく、ナターシャが常に この地球上で最も強大な小宇宙を持つアテナの聖闘士たちに守られているから維持できている命の奇跡である。
実の父親の愛をもってしても、その奇跡を永続することはできないだろう。
「あの男が ナターシャの実の父親なのだとしても、ナターシャを彼の許に返すことはできない。ナターシャの命を守るために、それはできない」

決して自分の幸福や満足のためではなく――それを求める気持ちがないとは言わないが、すべてはナターシャが生きていてこその話なのだ。
言外に そう告げてから、氷河は、
「ナターシャがあの男の許に行きたいと言うのでもない限り」
ナターシャの幸福こそが最優先。それだけは忘れてはいない。忘れてはならない。――と自分に言い聞かせるように、低く呻いた。
瞬が、切なく頷く。

「ん……そうだね。でも、彼は、大切な一人娘を失って、そのせいで奥さんまで亡くして、一人ぽっちになってしまったんだよ」
「俺はナターシャを手に入れることで、おまえまで手に入れて、恵まれすぎているから、だから、あの男に引け目を感じて、遠慮して、そして 哀れめというのか」
「ナターシャちゃんを返してあげることはできないから、せめて彼を力付けてあげられるように、僕たちにも 何かできないかと思うだけだよ」
「フランス男なら、新しい恋人でも作って、失った娘の代わりに、何人でも子供を儲ければいいんだ」
「氷河。そういう問題でないことは わかっているでしょう。自分にできないことを、他人に求めてどうするの」
「……」

『それくらい、俺にだってできる!』と、嘘でも見栄でも言えない氷河だから、瞬は彼の幸福と心を守ってやりたいと思うのだ。
誰もが心優しく誠実で、人の不幸など望んでいない。
にもかかわらず、誰もが幸福になれる世界の実現は難しい。
いっそ すべての人間が愛や優しさなど持っていなかったなら、人は、幸福を感じることもない代わりに、悲しさや 孤独の感情に支配され 自分を不幸な存在だと思うこともないのかもしれない。
それでも 自分は――アテナもまた――愛ある世界を望む。
“愛”は、人間が築く世界における 最も過酷なルールなのかもしれない。
何よりも厳しく冷酷なルールなのかもしれない。
そう、瞬は思ったのである。






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