「あ、マーマだ! マーマ!」
マーマが保育室の入り口脇で、保育士のおばちゃんと何やら話し込んでいる。
マーマのお迎えに気付いて、ナターシャは、マーマに向かって手を振った。
いつものように マーマの許に駆け寄ろうとして、だが、その寸前で思いとどまる。
目の見えない斗音くんは、側にいる人間に突然 動かれると びっくりするかもしれない。
せっかくできたお友だちが、マーマのお迎えを喜んで さっさと離れていくと、斗音くんは寂しい気持ちになるかもしれない。
マーマもすぐに帰宅しようとしている気配はない。
無言の微笑みが、まだ しばらく斗音くんと遊んでいていいと言っているようだった。

きっとそう。
マーマはナターシャが目の見えない斗音くんに優しくしてあげているのが嬉しいのだ。
マーマが喜ぶことは“いいこと”で、“いいこと”ができる自分が、ナターシャは嬉しかった。
斗音くんは マーマがお迎えに来たのに、その場を動かないナターシャを怪訝に思わなかったらしい。
彼はナターシャが手を振った方に、顔を巡らせて、
「ナターシャちゃんのママ? すごい」
と言った。
光のない瞳が、ナターシャのマーマを見ている。
ナターシャは首をかしげた。

「すごく綺麗だ」
光のない斗音くんの瞳に光が宿った――と錯覚しそうになるほど、斗音くんの声は弾み、上擦っていた。
「みんな、そう言うよ。ナターシャのマーマは、とっても優しくて綺麗。ナターシャのパパは、とってもクールでカッコいいって」
マーマが綺麗と言われることは 不思議でも何でもない。
それは いつものことだし、誰もが言うことである。
だが――。

「でも、斗音くんは目が見えないんでしょ? どうして、ナターシャのマーマが綺麗だってことがわかるの? 斗音くんは、まだ子供で目が見えないのに 天才作曲家だって、保育士のおばちゃんが言ってたよ。だから、うるさくしちゃ駄目って」
「うん。ヴァイオリンは絶対音感がなくて駄目で、ピアノは、指が 変に曲がってて 長くなりそうにないから、向いてないって言われて、僕、パパとママに見捨てられそうになったんだよ。でも、作曲はできたんだ」
ナターシャは、そんなことを訊いたつもりはなかった。
ナターシャが知りたいのは、目が見えない斗音くんに マーマが綺麗なことが わかる理由。
斗音くんの答えは、少し ずれていた。

「ほんとは見えてるの?」
ナターシャに思いつく“理由”は、それだけだった。
斗音くんは、本当は目が見えているのだが、何らかの事情があって、見えていない振りをしている――。
だが、そういうわけではないらしい。
斗音くんの目は、やはり本当に見えていないらしい。
斗音くんは、
「ううん」
と言って首を横に振り、それから こっそり小さな声でナターシャに耳打ちをしてきた。

「あのね。僕、人のオーラが見えるんだ」
「オーラ?」
声を潜める斗音くんにつられて、ナターシャの声も小さくなる。
斗音くんは、今度は縦に首を振った。
「人の周囲に膜みたいなのが見えるんだ。そういうの、オーラっていうらしい。ネットで調べたんだ」
「じゃあ、オーラって、小宇宙のことかな」
「こすも?」

斗音くんは“小宇宙”を知らないようだった。
多分、呼び名が違うのだと、ナターシャは思ったのである。
東京で“たぬきうどん”と呼ぶものは、西の方では“きつねうどん”と呼ぶという話を、ナターシャは星矢ちゃんから聞いたことがあった。
「オーラのことダヨ。多分。ナターシャのおうちでは、オーラのことを小宇宙って呼ぶんダヨ。マーマは、小宇宙っていうのは、心の力だって言ってる。人の心の愛の力だって。ナターシャには見えないんだけど、時々 見えることもあるヨ。パパがナターシャのために戦う時や、マーマが世界を守ろうとする時」

斗音くんは、『戦う』『世界を守る』という言葉に 少し驚いたようだったが、すぐに思い直したように頷いた。
武器を持って戦うことだけが戦いではないと、気付いたのだろう。
斗音くんは、
「音と音が戦うこともあるから……」
と、一人ごちた。

「うん。きっと、それだ。心の力。ナターシャちゃんのママは 心に愛しかないから、あんなに綺麗なんだ。他の人とは違う」
目は光を映さぬまま、だが、斗音の声は うっとりしていた。
「白……薄紅……薔薇色……何ていうのかな。僕は色を見たことがないから、何色なのかは よくわからないけど、明るくて、優しくて、あったかくて、綺麗で、きらきらしてて、力強くて――」
光を見たことがない――色を見たことのない斗音くんが、目ではない器官(?)で感知しているもの(?)を説明するのは難しいらしい。
だが、ナターシャには、斗音くんが見ているものが どんなものなのか、おぼろげながら わかったのである。
ナターシャにも それが見えたことがあったから。
ナターシャが見たマーマの小宇宙も、優しく 温かく 綺麗だった。
「斗音くん、ほんとに見えてるんだ……」

「他の人のは、もっと暗かったり、歪んでたり、弱かったりするんだ。それで、大抵、綺麗と汚いが入り混じってる」
「そっかー」
パパとマーマ以外の人の小宇宙は、ナターシャは見えたことがなかった。
その存在を感じたことはあるのだが、ナターシャに判別できる小宇宙は、パパとマーマのものだけだった。

「ナターシャちゃんのマーマは すごく綺麗で優しい人なんだ。ナターシャちゃんのも綺麗だよ。すごく 明るくて」
「ナターシャも綺麗? うふふ」
自分では見えない、自分の小宇宙。
斗音くんに『綺麗』と言ってもらえて、ナターシャは嬉しくなった。

「あのね。ナターシャのマーマは、この病院の お医者様なんだよ」
「あ、じゃあ、眼科の先生が言ってた、この病院で いちばん綺麗で優しい瞬先生って……」
「瞬先生っていうのは、ナターシャのマーマのことダヨ!」
パパとマーマを褒められることは、自分が褒められることより嬉しい。
ナターシャは満面の笑みを浮かべ、斗音くんは 妙に大人びた顔つきになった。

「ふうん……。手術しろしろって うるさい眼科の先生に、瞬先生と お話すれば、きっと気持ちが楽になって、考えも変わるって 言われたんだけど……。瞬先生が特別な人だっていうのは、ほんとのことみたいだね」
“瞬先生”が特別 綺麗で優しい先生だということを、斗音くんは信じていなかったのだろうか。
ナターシャが むーっと唇を尖らせると、斗音くんは言い訳のように、右の手の平を ひらひらと振った。

「たまにね、言葉ではすごく優しいけど、オーラは真っ暗だったり、周りの空気を ぐちゃぐちゃに歪めてる人がいるんだ。きっと、あれは、その人の本心、本性なんだと思う。そういう人と一緒にいると、恐くて、気持ちが悪くなって、一緒にいない方がいいって わかるんだ。だから、逃げる。そうすると、天才作曲家は 我儘だだの、キグライが高いだのって言われるんだ」
「ン……ウン」
ナターシャは、その逆を知っていた。
言葉使いは乱暴で、ナターシャを馬鹿と言い、だが、ナターシャを助けてくれた、ぶっきらぼうで不器用な黄金聖闘士。
同じ人間のことなのに、見えるものと見えないものが違うこと、聞こえることと聞こえないことが違うことは、よくあることなのだ。






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