光が丘公園のイチョウ並木は、今がいちばん見頃である。 夏が暑かったせいで、今年は紅葉も落葉も遅れ気味。 その分 長く、その分 ゆっくり、深まる秋を楽しんでいられる。 この時期だけは、ナターシャも、ちびっこ広場よりイチョウの並木道の方が お気に入りだった。 その並木道で、その日、瞬は、思いがけない人の待ち伏せを受けた。 “思いがけない人”といっても、その若い女性が何者なのか、 「瞬先生ですね?」 と、イチョウ並木の入り口で名を呼ばれた時には、瞬は わかっていなかったのだが。 見たところ、20歳過ぎ。大学生のようだった。 かなり長い時間 待っていたのだろう。瞬が そうだと答える前に そうと決めつけて、彼女は彼女の話を始めてしまった。 「病院に行ったら、瞬先生は今日は お休み、医師の連絡先は教えられないって言われて――。そこを何とかって、受付で食い下がってたら、通りすがりの看護師さんが、光が丘公園で会えるかもしれないって教えてくれたんです。ちびっこ広場か イチョウの並木道で、馬鹿みたいに綺麗な親子連れがいたら、そのママさんが瞬先生だって。そんなんで わかるはずないと思いつつ待ってたんだけど、すぐわかったわ。ほんとに馬鹿みたいに綺麗なんだもの。私、あなたに遺言書探しなんて馬鹿な依頼をした馬鹿男の娘です」 立て板に水どころか ナイアガラの滝並みの勢いで、一息に そこまで言ってから、彼女は苛立たしげに唇を噛みしめた。 “瞬先生”がやってくるのを待っている間、彼女は 自分の頭の中で 言うべきことを幾度も反芻し、確認していたのだろう。 それを一気に吐き出した感があった。 自分のせっかちな口調に 自分で呆れたのか、話し振りが 少しゆっくりになる。 「父が、亡くなった伯父の遺言書を探してくれと、馬鹿なことを依頼したそうですが、忘れてください。万一、ありかがわかっても、父には教えないでください」 話すスピードを緩やかなものにしたら、彼女は 気持ちの方も落ち着いてきたらしい。 どこか興奮気味だった表情も、落ち着いてきた。 「伯父は、父を追い払うために、父の前で そんな遺言書を作ったんでしょう。父が帰ったら すぐに、作ったばかりの遺言書を破棄したんだと思います」 「は……」 彼女の父親の実兄の遺産への執着は 呆れるほど強いものだったが、その娘の方は 呆れるほど冷めている。 20歳を少しまわったほどの年齢で そんな推測ができる彼女に、瞬は――瞬でも舌を巻いた。 「父は馬鹿ですが、業突く張りではないんです。父は 自分のためではなく、私と私の弟のために伯父の遺産を手に入れようとしている。でも、私は、そんなもの、いらないですから」 「いらないんですか?」 「いりませんよ。そりゃあ、お金はあった方がいいに決まってますけど、私、就職も決まってますし、弟だって、あと1年ちょっとで大学卒業。父は馬鹿だけど 借金は作ってませんし、貯金はなくても、勧誘員に言われるまま入った保険契約はある。家は古いけど持ち家、母は 幸か不幸か、5年前に他界。私たちは 伯父の遺産なんかなくても 何とかなるんです」 彼女の話し振りは、伯父の遺産の行方というより、自身の家の今後を案じているものだった。 それも、もしかしたら、彼女の父親の死後のことを。 瞬は嫌な予感がしたのである。 そして、その手の嫌な予感は、大抵 当たるのだ。 「父は、先月、膵臓癌が見付かったんです。ステージ4。もう成人しているとはいえ、私と弟は まだ学生。自分の身に何かあった時には、伯父を頼ることになるだろうと考えていたんだと思います。それで、ほとんど無理強いして遺言状まで書かせたのに、その伯父の方が先に亡くなって、予定が狂ってしまった。父が死ぬと、伯父の遺産が私たちのところに来る可能性はますます小さくなるので、自分が生きているうちにと、父は躍起になっているんです」 「それで……」 彼女の父の非常識な依頼、なりふり構わない兄の遺産への執着振りの訳が、瞬には やっと理解できたのである。 彼は、言葉使いは正しく丁寧なのに、言っていることと依頼内容が粗暴で、何かが ちぐはぐだった。 そういう事情があって、心が混乱し、気持ちが急いていたのなら、あのちぐはぐ振りにも合点がいく。 「余命数ヶ月。自分が死ぬっていうのに、伯父さんの遺産を手に入れるために必死に走り回るなんて おかしいでしょ。自分のしたいことをするとか、美味しいものを食べまくるとか、自分を詐欺に引っ掛けてくれた極悪人に落とし前をつけてもらいにいくとか、他にすることがあるでしょ。ほんと馬鹿なんだから。昔から、どっか 一本ずれてる人だった」 彼女の苛立たしげな口調と態度は、一本ずれた父親の、一本ずれた愛情表現のせい。 その不器用が 切ないからなのだ。 「お父様は、ご自分のことより、あなた方ご姉弟のことが大切で心配でならないんですね。あなたも、お父様をお好きですか」 「嫌いよ。馬鹿なんだもの」 「確かに不器用ですね。似ていますよ、お二人」 「知ってるわよ。あんなのに似てるなんて、悔しいったら」 彼女は、自覚はしているらしい。 和んでいいような場面ではないと思うのに、瞬の胸の中は温かくなった。 「僕は死者の声を聞くことなど できませんから、お父様のご依頼は、お話を伺っただけで、お引き受けしたわけではありません。あなたも……遺言書や遺産などより、少しでも長く 側にいてほしいと、お父様に言葉で はっきり頼んだ方がいいですよ。そして、生きているうちに、お父様を大好きなことを、幾度でも伝えておいた方がいい。そうすれば、お父様も、お兄様の遺産のことなど 忘れてくださるでしょう」 パパと手を繋いで、マーマと早口の怒れるお姉さんの やりとりに耳を傾けていたナターシャが、話題が自分の得意分野に及んできたことに鋭敏に気付き、ぱっと瞳を輝かせる。 自分のことは後まわしのマーマに助太刀してあげるのが、ナターシャの大事な お仕事なのだ。 「ナターシャは、パパとマーマに 毎日、大好きって言ってるヨ! 人はいつ死ぬかわからないカラ、生きてるうちに、いっぱいたくさん、『大好き』って言っておいた方がいいんダヨ!」 遺産や遺言書は論外、今後の生活より、親子して不器用なことより 重要なこと。 ナターシャが大きな声で、力いっぱい主張したのが それだった。 生きているうちにしておいた方がいい、何よりも大事なこと。 それまで 苛立ちで興奮気味だった女性が、ナターシャの力説に触れて、毒気が抜けたような顔になる。 ナターシャの言うことこそが真実だと、彼女は認めたらしい。 パパと手を繋いでいるナターシャの前に しゃがみ込み、彼女は、反省と感嘆でできた微笑をナターシャに向けてきた。 「ナターシャちゃん? まだ こんなに小さな女の子なのに、死んだ時のことまで考えてるなんて、すごい お利口さんだね。うちのパパも 私も、ナターシャちゃんくらい お利口さんだったら、今になって こんなに慌てなくて済んだのに……」 お姉さんの声が重く沈む。 対するナターシャの声は、明るかった。 「今すぐ パパのところに行って、大好きって言えばいいヨ! それで全然 おっけーダヨ!」 二度までも、負うた子に教えられて浅瀬を渡る。 三度目になったら、負うた子も仏の顔でいてくれないかもしれないと考えたのか、彼女は 急に引き締まった表情になり、その場に立ち上がった。 そして、瞬の前で腰を折る。 「親子して ご迷惑をお掛けして 申し訳ありませんでした。父に、『大好き』と『大馬鹿野郎』を言いにいきます」 「ええ。頑張ってください」 瞬の声援に、照れ隠しめいた微笑を返して、彼女は駅の方に向かって歩き出した。 駆け足と早足の中間くらいのスピード。 こうと決めたら速やかに行動に移すタイプの女性らしい。 他人の瞬が心配することは、もう ないようだった。 それもこれも、ナターシャの的確な助言のおかげである。 「ナターシャちゃんのおかげで、あのお姉さんも お姉さんのパパも、とっても大事なことを思い出せたと思うよ。僕も、心配事がなくなった。ナターシャちゃんは、きっと世界でいちばん お利口な女の子だ。ありがとう。僕も氷河もナターシャちゃんが大好きだよ」 「うふふ」 マーマに褒められて、ナターシャは ご機嫌である。 ナターシャは、その上、生きているうちにしておいた方がいい大切なことを ちゃんと知っていて、ちゃんと実行するのだ。 「パパ、マーマ。ナターシャは、パパとマーマが大好きダヨ!」 なにしろ ナターシャは、世界でいちばん お利口な女の子だから。 Fin.
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