そんなこんなで、結局 その日、ナターシャは、当初のお目当ての『ぼやーっと生きてんじゃねーよ!』は 1回しか言ってもらえないまま、城戸邸を辞することになったのである。
が、その分、精神年齢をナターシャに合わせることのできる星矢と“グリコ、チヨコレイト、パイナップル”を真剣勝負で たっぷり遊べたので、彼女は 今日の城戸邸訪問の成果には満足したらしい。
星矢たちと一緒に外でランチを済ませてから、ご機嫌で 光が丘に戻ってきたのは 午後2時前。
ちょうど、お昼寝タイムで公園が空いている時を狙っている親子連れが、公園に向かう時間帯だった。

光が丘公園前の横断歩道に差し掛かった時、
「パパ、マーマ! 冬なのに、タンポポが咲いてる!」
ナターシャは、横断歩道の向こう側、街路樹の足元にタンポポの花が咲いているのを発見した。
歩行者用信号は青色の灯火の点滅が始まったタイミング。
急いで渡ろうとするナターシャを、瞬は引きとめた。
「ナターシャちゃん。青信号のちかちかは、渡ってる人には『急いで』、他の人には『待て』の合図だよ。次に青になってから、ゆっくり渡ろうね」
「はーい」
いい子のナターシャは、いい子のお返事をして、駆け出そうとした足を止め、パパと手を繋ぐ。
赤になった信号が青に変わるのを待っているうちに、歩道側には 公園に向かう親子連れが4、5組 たまっていた。

公園前の大きな交差点で、渡ったところに交番があるため、無謀な渡り方をする者が滅多にいない横断歩道。
信号が青に変わったので、ママと手を繋いだ子供たちが その横断歩道を渡り始めた時だった。
車両用信号機の赤い灯火を無視した赤い車が、途轍もないスピードで、子供たちが渡っている横断歩道に突っ込んできたのは。

「氷河!」
瞬が氷河の名を呼ぶと、氷河は無言で 行動を起こした。
ナターシャを右腕で抱きかかえ、突っ込んできた車の正面にまわり、車を左手で止める。
そんなことができる異様な人間だと思われるわけにはいかないので、氷河は 文字通り、目にも留まらぬ速さで、その車のスピードを殺し、交差点に立っている標識の方に薙ぎ払った。
光速拳を見切る目を持たない常識人の目には、それは、暴走車が、時に思いもよらない動きをする酔っ払いの真似をした――ように見えただろう。
スクールゾーン30キロの制限速度を7、80キロオーバーし、100キロを超えていた速度が50キロ程度まで落ちてから、暴走車は標識の柱に衝突。やっと止まった。

横断歩道を渡っていた子供と母親たちが何組か、悲鳴をあげて、横断歩道の枠の外に避難する。
声もあげずに、その場に しゃがみ込む子供もいた。
氷河がスピードを落としてやったとはいえ、それなりに衝撃を受けたはずなのに、暴走車から出てきた運転手は、ふらふらした足取りで その場から逃げようとしている――ようだった。

30歳前後だろうか。砕けた格好をした金髪(偽物の金髪)の男。
様子がおかしいのは、衝突の衝撃による怪我のためではなく、酒か薬物のせいのようだった。
まともな判断力を有する人間なら、たとえ彼の乗っていた車が盗難車であったとしても、交番の前で事故を起こしておきながら、車をその場に放り出して逃げようとはしないだろう。
だが、彼は それをしようとしていた。

「まかり間違えば、幼い子供が何人も犠牲になっていたかもしれないのに、すべてを放り出して 逃げる気ですか」
ふらふら――というより、むしろ、ゆらゆら。
100メートルと逃げおおせられる足取りではない。
瞬が 覚束ない足取りの運転手の前に立ちはだかると、彼は その手をのばして、あろうことか瞬の上着の両袖を掴み、倒れ込むように 瞬に しなだれかかってきた。

「美人だねー。びじんびじん。見逃して。見逃してくれたら、1000万――いや2000万あげる。僕のパパは参議院議員の江羅井義引だよ。金は腐るほど持ってるよ」
酒の匂いはしない。
瞬は、彼の腕から逃れ――触れるのも嫌だったので、彼の上の空気を重くし、彼を その場に へたり込ませた。

交番の警官が二人、泣いている子供たちと母親たちに怪我のないことを確認し、ボンネットが潰れている車に一瞥をくれてから、瞬の許に駆け寄ってくる。
「瞬先生、何があったんですか!」
二人共、地域の住人としても、光が丘病院の医師としても、瞬とは顔見知りだった。

地域いちばんの公園前。
数百メートル以内に、幼稚園、保育所、小学校、中学校がある。そして、交番。
当然、防犯カメラが設置されている交差点で、こんな事故が起きるのは、これが初めてのことかもしれなかった。
瞬が、警官たちに 事情を説明する。
「信号無視。50キロ以上のスピード違反。この交差点は防犯カメラも設置されてますし、この車にはドライブレコーダーも搭載されているようですし、証人も大勢いますから、ごまかしようはないでしょうが……。この方、飲酒はしていないようですが、言動が普通ではないので、薬物検査をしてください。参議院議員の江羅井義引さんの息子だと、言っていました。見逃してくれたら、1000万もしくは2000万くださると、僕を買収してきました。音声データも残っています。様子がおかしかったので、すぐに スマホの録音スイッチを入れましたから」
「さすが」

混乱のかけらもない、極めて冷静な瞬の報告に、二人の警官が揃って、感嘆の息を洩らす。
そんな瞬とは対照的に、事故を起こした運転手は、
「ひええっ」
薬物の影響なのか、妙ちくりんな奇声をあげてから、薬物でおかしくなっているにしては 無駄に筋の通った日本語を話し出した。
「あんた、美人だと思って 下手に出てれば、いい気になりやがって、俺の人生を破滅させる気かよっ !? 」
日本語の文章として 言いたいことはわかるが、その主張には常識がない。

「あなたの人生? あなたは 何を言ってるんですか!」
警官たちの方に向けていた視線を、瞬が 薬物運転手の方に戻す。
瞬は、苛立ちかけていた。
「あなたは、ちゃんと信号を守って 横断歩道を渡っていた幾人もの子供たちの未来を奪おうとしたんですよ? 氷河がいなかったら、怪我人が出ていたかもしれません。怪我だけでは済まなかったかもしれない。あなた自身も――」
「でも、実際、誰も死んでねーんだし」

薬のせいか、本来の人間性なのか、反省も後悔もしていないらしい男の不満げな その一言が、瞬を、冷静な医師でなくした。
「僕を本気で怒らせるな!」
特に大きな声ではなかった。
むしろ、低く小さな声――抑えた声――抑えようとしている声。
途端に、無謀運転手の顔が真っ赤になり、すぐに真っ青になる。
瞬が 彼の周囲の空気を操り、彼の身体を、途轍もない速さで走り流れる空気で覆い尽くしたのだ。

当然、彼は呼吸ができなくなる。
呼吸どころか身動きもできず――暴走運転手は、氷ではなく空気の棺に閉じ込められた状態になっていた。
彼自身の主観と五感には、真空の棺に閉じ込められたように感じられていただろうが。
息もできず 身動きもできない無謀運転手は、当然 表情を変えることもできない。
まともな思考を組み立てることすらできない今の彼に できることは、自分の感情を瞳に反映させることだけである。
最初は、愚鈍と傲慢の濁った色をしていた彼の瞳は、今は恐怖の色一色に染まっていた。
無謀運転の犠牲になって、一瞬で命を奪われる子供がいたかもしれないことを考えると、自分の死を恐れる時間が与えられることは、途轍もない幸福である。

瞬を、氷河は すぐには止めなかった。
無謀運転手の息が止まってから、約2分。
特段 肺を鍛えているようでもないので、この辺りが限界だろうと踏んだところで、瞬に声をかける。
「瞬。気持ちはわかるが、落ち着け」
「あ……」
氷河に制止され、瞬は、無謀運転手の上に落としていた視線を そこから逸らした。

氷河と氷河の腕に抱きかかえられているナターシャを視界に映し、自分の母親に寄り添い立っている子供たちの姿を確かめ終えてから やっと、瞬の表情が和らぐ。
その瞬間に 身体の自由を取り戻した無謀運転手は、喉が引きつったような音を立てて 浅い呼吸を幾度も繰り返すことをした。
それから、
「ひいぃい、美人、こわい、びじん、いや、やめて、ごめんなさいぃぃ~」
と、瞬たち以外の人間には、薬物のせいで 幻視幻聴の症状が出ているのだろうと思うしかない言葉を吐き散らしながら、四つん這いで 瞬の前から逃げ出そうとする。

「薬物と交通事故のせいで、正常な判断力を失っているようです。彼自身の身の保全のためにも、しばらく身柄を拘束しておいた方がいいかもしれませんね」
『美人、恐い』を繰り返す無謀運転手にあっけに取られていた警官たちが、瞬の言葉で我にかえり、薬物中毒者の身柄を確保する。
そうして、万一、後日 後遺症が出た時のために、転倒した子供たちと その保護者は病院に赴き、他の者たちは名前と連絡先を警官に申告して、運転手以外の関係者一同は その場で解散の運びとなったのだった。






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