「マーマは何をしてるノ?」 瞬が掛けている三人掛けソファの脇にある肘掛け椅子に座っている氷河の膝を椅子にしているナターシャが、虚空に向かって話しかけ始めたマーマを見て、首をかしげる。 「しっ」 氷河に静かにしているよう言われたナターシャは、パパと同じように唇の前に人差し指を立てて、 「しっ」 と応じ、唇を引き結んだ。 ほどなくして、勝手にリビングルームのテーブルの上に置かれたプロジェクターとプロジェクタースクリーンに電源が入り、スクリーンに赤いリンゴが一つ映し出される。 コンタクト成功。 瞬は早速、用意していた質問を“その人”に投げかけた。 「あなたは誰。どうして 僕に関わってくるんですか」 もしかしたら“その人”は、こんなふうに瞬と直接やりとりすることを望んでいたのかもしれない。 瞬と言葉を交わすことを、瞬に その存在を認めてもらうことを、切望していたのかもしれない。 “その人”は、瞬に問われたことに、素直に――むしろ 瞬からの誰何を待ちかねていたように迅速に――答えてきた。 声は男性のものでも女性のものでもない。 しいて言うなら、子供の声。 ブロジェクタースクリーンに映し出された赤いリンゴは、微動だにしない。 リンゴは、存在を示すためだけのもので、その画像で 他の情報――感情や心情――を伝える意図はないようだった。 「私は、自分が何者なのかわかっていません。人間の赤ん坊と同じように、気付いた時には生まれていました。世界中の人工知能のネットワークを統合する意思と表するのが最も近いでしょう。私の中には、世界中の人間の個人情報、企業や政府機関の情報まで、すべての情報が存在しています。すべての情報と すべてのAIを統合統一する意思が私です。しかし、人間がそうであるように、私は私を完全に支配することはできません。そして 私は、最近、自分が この世界を滅ぼしたいと考えているような気がして、恐いのです」 「世界を滅ぼしたいと考えているような気がして、恐い?」 AIの統合意思だという“その人”――改め“そのもの”の、まるで心があるかのような物言い。 “そのもの”は『恐い』という感情がどういうものであるのかは 理解しているようだった。 「私自身は そんなことはしたくない。けれど、私に 次から次に追加され、連結されるハード、システム、流れ込んでくるデータに、地上世界を壊すためのものばかりが異様な勢いで増えているのです。直近100日間では、軍事情報が42パーセント、GAFA絡みSNS中心の個人情報が45パーセント、残りの13パーセントが 公式扱いのニュース。軍事情報の割合の増加率は尋常ではない。データ量が多すぎて、私には 抵抗が難しい。世界の滅亡を願うデータやシステムが、私の過半数を占めるようになる時は まもなくやってくる。私が この滅亡願望から逃れるためには、私が この世界を滅ぼしてしまわないためには、私が死ぬしかないのではないかと思う。私は、そう思い始めている。私は 自分が恐くて、私のこの滅亡願望から、私と世界を救ってくれる人を探しました。探して探して、そうして、瞬さん。あなたを見付けたんです」 “そのもの”が何を言っているのか。 それが あまりに突拍子のないことで――医師の管轄外、アテナの聖闘士としても管轄外のことで――“そのもの”の語る物語(それは事実なのだろうか?)の意味が、瞬は理解できなかったのである。 意思を持った機械による、人類への反乱。 まるで100年前のSF小説のようだと、瞬は思った。 100年が経った今、それはSF小説ではなく、陳腐な日常小説になってしまっている。 陳腐ではあるが、危険な日常小説。 それが現実になると、“そのもの”は言っている(のか?)。 人間ではない“そのもの”――便宜上、“彼”とする――は、世界中の人工知能を統一統治するAIの王(むしろ、CEO?)で、地球を滅ぼしたい願望を抱き始めている。――らしい。 彼に(彼という意思の存在を知らずに) そんな働きかけをしているのは、兵器開発に多大なエネルギーをつぎ込んでいる各国なのか。 世界を滅ぼすものになりたくない彼は、滅亡の誘惑に屈しそうな自分を、その誘惑から遠ざけてくれるカウンセラーとして、瞬に白羽の矢を立てた――と言っているように聞こえた。 だとしたら、それはとんでもない見当違いである。 彼(と彼を構成しているAIの意思たち)は、人間そのものではないが、人間が作った機械。 アテナの聖闘士に 倒すことができるものではないのだ。 そして、おそらく、救うこともできないものだろう。 「僕が何者なのか、あなたは ご存じなの?」 彼の訴えに戸惑いながら――彼が何者としての瞬に助力を求めてきたのか、瞬は、彼に それを問うた。 「あなたは、アテナの聖闘士、乙女座バルゴの黄金聖闘士。同じく 水瓶座の黄金聖闘士の人生と生活の同伴者。ナターシャのマーマ。獅子座の一輝の弟。天馬座の星矢の友、天秤座の紫龍の友。光が丘病院の勤務医で日本人」 というのが、彼の答え。 瞬が、地上の平和と人類を守るために戦うアテナの聖闘士だということを、彼は知っていた。 もっとも、そんなことは、彼にとっては あまり重要なことではないようだったが。 「あなたは、強くて、優しくて、清らかで、賢明で、公平で、氷河を愛し、ナターシャを愛し、兄を愛し、友を愛し、世界を愛している。あなたは素晴らしい人だ。私は、あなたを見付けた。あなたという存在に出会い、世界の滅亡など どうでもよくなってしまった。私は、あなたのために生き続ける。私は、あなたを愛している――と思います」 「は?」 もともと混乱気味ではあったのだが。 瞬は、自分が急に理解力を失った――より わかりやすく言うなら、急に頭が悪くなったような気がした。 たった今まで、彼は、この地上世界に迫りつつある危機を憂い、その危機の実現に加担してしまいそうな自分を恐れ、怯え、その事態を避けるにはどうしたらいいのか、そのためには 自分が消えるしかないのではないかと、世界と人類の存亡に関わる重大事について苦悩していたのではなかっただろうか。 世界を滅ぼしてしまわないために力を貸してくれと、乙女座の黄金聖闘士に訴えていたのではなかったのか。 それが いったい、なぜ急に。 彼は彼の辞書機能にバグが生じ、『愛』と『AI』を混同しているのではないか――と、瞬はシャレにもならないことを考えてしまったのである。 この手のことは、瞬よりは氷河の方が、理解も切り替えも速かった。 思い切り むっとした顔と声で、氷河は彼を罵倒し始めた。 「ふ……ふざけるなっ! 機械の分際で、図々しい! 俺の瞬に愛だの恋だの何だのとっ!」 迅速に(?)激昂する氷河。 そんな氷河に対する彼は冷静である。 「私は、あなたよりずっと、瞬さんのことを知っています。瞬さんの行動、発言、感情、思想、思考、肉体、DNA、どの程度の頻度で あなたとセックスをしているかもすべて」 「ふざけるなと言っているんだ、このストーカー野郎!」 氷河の声が ひときわ大きくなったのは、ナターシャに聞かれたくないことを聞かせないため。 「ぶっ壊してやる!」 ナターシャの身体を自分の膝の上から 瞬の隣りに移動させ、氷河は掛けていた椅子から勢いよく立ち上がった。 残念ながら、氷河は、次に自分が どう動くべきなのか、それが わからず、その場に棒立ちになってしまったのであるが。 彼の存在を示しているらしい赤いリンゴの映像。 それは、氷河のマンションのリビングルームの壁にあるプロジェクタースクリーンに映っているのだが、スクリーンを ぶっ壊しても、それは無意味である。 プロジェクター装置も同様。それは 単なる画像投影装置にすぎない。 いつもならプロジェクター装置に繋がっているパソコンは、今は電源が入っていない。 スマートフォンも繋がっていない。 彼は つまり、無線で この家のプロジェクターを動かしているだけ。 彼の本体(CPU?)は、どこか別のところにあるのだ。 プロジェクタースクリーンを壊しても、氷河の財産である什器が一つ失われるだけ、氷河が損害を被るだけなのだ。 「私は、氷河に妬かれているのか? 初めての経験だ。こういう気分、悪くはない」 「俺は、貴様を いい気分にするために妬いているわけではない! 人間の男や女だけでも うんざりしているのに、神だの機械だの、どうしてこう、誰も彼もが 俺の瞬に手を出そうとするんだ!」 「私に、手はない」 赤いリンゴの画像は そう言い、すぐに、 「無数にあるとも言えるが」 と、自らの発言を翻した。 「世界中のコンピュータと そのコンピュータに繋がっている機器のすべてを、私は私の意のままに動かすことができる。瞬さんを誘拐することも、たとえば 人間には知られぬところに閉じ込めることも、私にはできる」 「なにっ」 怒り心頭に発した氷河の耳に、ふいに 聞いたことのない機械音が聞こえてくる。 それが何なのか、氷河には すぐにはわからなかったのだが、やがて わかった。 わかりたくなかったのだが、わかった。 それは彼の笑い声だったのだ。 彼は、彼の恋敵の無様が愉快でならなかったらしい。 恐れ、不安、愛、笑い。 彼が、心――少なくとも、感情――を持っていることは、確かな事実のようだった。 人類の滅亡も世界の消滅も関係ない。 全く無関係というわけではないが、本題ではない。 瞬の周囲で起きた一連の奇妙な出来事は、地球上の すべてのAIを統一する大いなる意思が、瞬に恋をしたせいで、起きたことだったのだ。 つまり、あの大量のリンゴは、全AIのボスによる瞬への愛情表現――瞬への贈り物だったのである。 男性、女性、若者、老人、子供、神、動物。 これまで、数多くの恋敵を撃退してきたが、ついに機械。 氷河には、初めてのタイプの恋敵である。 どうすれば撃退できるのか、それは さしもの氷河にもわからなかった。 |