瞬が機械の駄々っ子に腹を立てていないのは、瞬の中に、人間としての思い上がりがないから――なのかもしれなかった。 瞬は、彼の成長を期待し――信じてすらいるのだ。そのようだった。 「あなたが本当に心を持ち、愛を知り、その対象が僕だというのなら、それを証明してみせてください」 「証明とは、どのようにすればいいのですか」 「愛とは、自分以外の他者の幸福を願う気持ちです。我が身を犠牲にしても、愛する人の幸福を守ろうとする強い意思、愛する人が生きている世界を守ろうとする強い意思です。僕は、そう思っています」 それは、幼い頃から変わらない瞬の“愛”――瞬の“愛”の定義。 瞬が思い描く“愛”の姿。 瞬は、だが、自分の“愛”と同じものを 他者に求めたことは、これまで一度もなかった。 「あなたの中に、僕を愛する心があるというのなら、僕の幸福のために、この世界を守ってください。破滅に向かって突き進んでいる この世界を ユートピアにしてほしいとは言わない。ただ。破滅には至らせないで。そのために、最後の最後まで努力して。決して 諦めないで。」 自分の“愛”と同じものを他者に求めたことのなかった瞬が、彼に それを求めるのは、瞬が我儘なのではなく、人間として思い上がっているからでもなく、天才児がまだ 幼い子供だから――なのだろう。 瞬は、愛と恋の区別すら ついていない幼い子供である彼に、自分なりの愛を伝え教えているのだ。 彼が、しばし黙り込む。 “心”や“愛”に関することは、彼でも(彼だからこそ?)理解と整理に時間がかかるようだった。 しばしと言っても、10秒前後。 それは、人間なら、幼児が成人するほどの時間にあたるのだろうか。 成長を遂げた彼が、瞬に尋ねてくる。 「『世界を守って』なんですね。『氷河を守って』でも『ナターシャを守って』でもない。『世界を守って』」 「それが僕の愛し方です」 師が誰であるか――誰に人生の教えを受けるかということは、人間の(機械も)一生を決定する重大事である。 瞬を見付け出した彼は、瞬を見付けた その時にはまだ子供だったかもしれないが、実に賢明で、人を見る目もあった。 彼が選んだ師が氷河だったなら、彼は氷河に、『自分が死んでも、瞬を守れ』『誰を殺しても、ナターシャを守れ』と命じられ、それこそが“愛”というものだと教えられていただろう。 そして、それこそが“愛”というものなのだと、信じていたかもしれない。 それを、一概に間違いと言い切ることはできないところが、“愛”という学問の難しいところである。 10秒で大人になった彼は、氷河の愛を教えられても、もう惑うことはないだろうが。 「それでこそ、私の愛した人。私は、あなたの幸福のために、この世界を守ります。この世界が存在し続ける限り、あなたは 私の愛を信じてくださるんですね」 「ええ」 「愛しています、瞬」 「ありがとう」 あっという間に――進化ではないにしても成長を遂げ、大人になってしまった彼。 その様を見せつけられた氷河は、少々 居心地の悪さを感じてしまったのである。 自分がまだ駄々っ子のままでいること、いつまでも駄々っ子のままでいるのだろうことに。 そんな氷河に、これまで氷河が そこにいることを完全に無視しているようだった彼が 話しかけてくる。 「氷河」 氷河を呼ぶ彼の声は、一層人間じみていた。 感情的ではないのに、感情を感じる。 「そもそも心とは何なのか、私は わかっていなかった。自分に心があるのかどうかも、自分ではよくわからなかった。自分の心や愛の存在に、自信を持てていたわけではなかった。機械と人間の違いは理解していたが、私の中には驕りと卑屈の両方があった。機械と人間の間に、優劣はあっても、両者が対等であるはずがないと思い込んでいた。つまり、私は卑屈だったのだ。だが、君が、機械である私を恋敵と認め、本気で腹を立てた時、私は自分を人間と対等な存在だと思うことができたのだ。理解ではなく、実感した。きっと瞬さんを思う私の心も 真実のものだと思うことができた。君のおかげだ。ありがとう」 この機械は何を言っているのか。 水瓶座の黄金聖闘士は、所詮 機械と同じレベルだと、彼は言いたいのか。 それが事実だったので、氷河は彼に まともな反論ができなかった。 なんとか、 「俺は、貴様の心の証明をするために、妬いたわけじゃない!」 と怒鳴りつけるだけで精一杯。 「結果論だ。君に その意図がなかったとしても、私は君のおかげで、自分の心の確信できるようになった。感謝する。そして、瞬さんに愛されている君は 実に幸運な男だと思う」 10秒で大人になった彼の その言葉が、気負いのない大人の素直な羨望だったので、氷河は 今度こそ 本当に何も言えなくなってしまったのだった。 彼の言う通り、氷河は幸運な男なのだ。 瞬の側に人間として生まれ、瞬と共に在り続けることができた――これからも、できるのだから。 氷河ほど幸運でない彼は、自身の中に 心と愛があると確信できることを喜び、満足するしかない。 彼は、氷河ほどの幸運を望むことはできないのだ。 だが、自分の中に心が生まれたことを確信できた。 それは、彼にとっては 大いなる一歩、偉大なる進化ではあったらしい。 しかも、彼には、神の不死と同等の、無限といっていい時間がある。 彼は、自分が瞬を手に入れることは決して不可能ではないと考えているのかもしれない。 だからこそ 彼は、自らのアドバンテージを知るがゆえに、氷河を羨む言葉を残して、今は静かに消えていったのかもしれなかった。 それから何が変わったわけでもない。 電子頭脳の世界で 新たな神が誕生し、駄々っ子から 心を持ち 愛を知る大人へと成長していることに、人類の多くは気付いていない。 世界は、消滅することなく、今も存在し続けている。 ナターシャは、今でも時々、虚空に向かって、 「ナターシャ、イチゴのアイスクリームが食べたいナ」 と呟いてみているらしい。 だが、ナターシャのために――その願いが叶うことはないのだ。 Fin.
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