子供の幸福






「おじゅけん?」
それは鳳凰幻魔拳のお友だちか何かなのだろうか。
と、最初 氷河は本気で思ったのである。
氷河ほど 本気ではなかったが、実を言えば、瞬も似たようなものだった。
それが 某有名小学校のお受験で 毎年 極めて高い合格率を出している某有名幼稚園のお受験のことで、そのお受験にナターシャとナターシャのパパとマーマに挑んでほしいというのが沙織の希望だということ、しかも 既に願書は提出済みだということを知らされて、瞬は愕然としてしまったのである。
氷河など、愕然以前。
状況を理解することを放棄して、彼は 氷の輪を作って遊び始めた。

肝心のナターシャは、魔鈴とジュネに、ウエストのくびれを作るのに有効なエクササイズを教えてもらうためにジムの方に行っていて、現在 城戸邸のラウンジにいるのは、ナターシャのパパとマーマと星矢と紫龍、そして この屋敷の主人である沙織の五人だけ。
五人といっても、そのうちの一人は、どう考えても ただの冷やかし要員だったが。
ウエストのくびれに興味がないから ここにいるだけの、オブザーバーですらない完全な第三者。
その冷やかし要員の第三者とは、無論 星矢のことである。


ナターシャに お受験話が降ってきた背景には、なかなか複雑なものがあった。
事の発端は、都内某区の、比較的新興の高級住宅地における児童養護施設建設計画。
親のない子供たちや 親と共に暮らすことのできない子供たちの健全な生活と教育への支援で社会貢献に努めているグラード財団は、その計画のために 来年度から使途指定で某区に寄付を行なう予定で数億円を計上していた。
ところが、施設の建設計画が公表されるや否や、某区当該地区の一部の住人が激しい反対運動を――もとい、派手な反対運動を――始めてしまったのである。

養護施設に暮らすことになる子供たちは 生活が荒れており、そのために 心もすさんでいるに違いない。
養護施設育ちの子供たちの存在は、普通の家庭に育った子どもたちに悪影響を与え、それどころか“普通の家”の子供たちの身に危険が及ぶこともあるかもしれない。
養護施設ができれば、近隣の“普通の家”の子供たちの安全を確保できない(に違いない)という決めつけが、反対運動家たちの反対理由。
逆に、“普通の家”の子供たちに 差別されて つらい思いをするのは 施設の子供たちの方だという論陣を張る運動家もいた。

反対運動の中心にいるのは、当該地区の従前からの住人ではなく、当該地区の住人としては新参の者たち。
そして、彼等の大部分が 当該地区にある某有名幼稚園と某有名小学校に 子供たちを入園入学させるために、この1、2年のうちに 当該地区に引っ越してきた家庭の住人たちだった。
某有名幼稚園と某有名小学校に入園入学するために 多額の投資をして この街に引っ越してきたのに、近所に犯罪者予備軍の収容所が建ったのでは、街の価値が下がり、土地の価格が下がる。
児童養護施設建築計画は 我が家と我が子の人生設計を邪魔するものでしかない。邪魔をするな!
――というのが、反対運動家たちの本当の反対理由のようだった。

財団としても 個人としても、各地の児童養護施設に多額の寄付をし、月に2、3度はそういった施設を慰問して子供たちの生活環境の改善に努めている沙織には、反対運動家たちの考えが理解できない――理解したくない。
理解できないながら、そんな考えの住民が多数派なら、新設の養護施設で生活を始める子供たちのためにも、もっと社会福祉に理解のある心優しい人たちが多く住む別の場所に施設を作るべきなのではないかと、彼女は悩み始めているらしい。

沙織は、幼稚園に通ったことがなく、義務教育はグラード財団の設立した学園で、特別待遇の教育を受けたため、受験を経験していない。
学校に通っていた時期もあるが、そこで集団教育を受けたわけではなく、学びたいことは、その分野の専門家を招いて個人的に学んだ。
受験という制度や進学校という施設・組織の益も害も知らない。
知らないので、児童養護施設建設問題の解決策も妥協点も思いつかない。

そこで。
「反対運動の中心人物たちが執着している お受験というものが どんなものなのか――そんなに意義のあるものなのか、本当のところを知りたいと思ったの。その判断のよすがに ナターシャちゃんに幼稚園を受験してみてもらいたいのよ」
ということを、沙織は思いついたらしい。
つまり これは、女神アテナによる アテナの聖闘士への命令ではなく、“普通の家”で育つことなく大人になり家庭を持った者たちへの、グラード財団総帥 城戸沙織からの依頼――ということになる。

「ですが、沙織さん。幼稚園の今年の受験というのは、昨年のうちに済んでいるのではありませんか?」
アテナの聖闘士としても、城戸家の金で養育された者としても、沙織の要請は断れない。
しかし、お受験というものは、受けたい時に受けられるものではないはずである。
瞬が問うと、沙織は ゆったりと頷いた。
「既に願書は提出済みと言ったでしょう。養護施設建設計画反対騒ぎで、入園辞退者が数名出たそうなの。今、あの幼稚園に入園したら 下品な成り上がり者だというレッテルを貼られてしまうと考えた、以前からの あの地区の住人が入園を辞退してしまったのよ。それで 急遽、補欠募集が若干名」
いくら受験を知らない超エリートといっても、沙織に そういう点で 抜かりのあろうはずがない。
馬鹿な心配をしてしまったと、瞬は 自分の浅慮早計を胸中で自嘲した。

「ナターシャちゃんは、とてもいい子だわ。しかも、有能で有望。ダイヤの原石のような子よ。このまま、あなたの薫育を受けて健やかに成長してくれたら、得難い人材になるでしょう。私は、ナターシャちゃんには いずれ グラードの要職に就いてもらうべく、働きかけようと企んでいたくらいよ。ナターシャちゃんは 養護施設育ちではないけれど、養子。あなたと氷河も、養護施設育ちというのとは ちょっと違うけど――こんな言い方はしたくないのだけれど、“普通の家”で育った人間ではない。ナターシャちゃんのパパは、バーテンダー ――まあ、俗に言う水商売従事者。マーマは、社会的成功者と見なされることの多い医師。そういう家庭で育っているナターシャちゃんが、有名幼稚園のお受験を受けて、受かっても落ちても面白い。受験後には、お受験の功罪について、あなたたちの意見と感想を聞きたいわ」
つまり合否はどうでもいいということらしい。
沙織なら採用する人材を、某有名幼稚園は どう評価判断するのか。
沙織が知りたいのは、その点のようだった。

「児童養護施設建設に対して 反対運動を繰り広げている人たちが執着する“いい幼稚園”だの“いい小学校”だのというものが どれほどのものなのか、興味があるの。それが低レベルの詰まらないものなら、改善改革すべきは――ことによったら、打破すべきは――養護施設ではなく、その“いい幼稚園”や“いい小学校”の方でしょう?」
にっこり笑って、沙織が言う。
沙織なら、“いい小学校”の近くに、養護施設在籍者のために、最高の教育者をそろえた学費無償の“もっと いい小学校”を創るくらいのことは、平気でやりかねない。
沙織の微笑は、“平気でやる”つもりの微笑だった。

沙織の微笑に釣られて浮かんできた自分の微笑が凍りつくのを、瞬は なぜか背中で自覚した――つまり、瞬は表情だけでなく背筋も凍ってしまったのである。
その計画の遂行には、いったい どれほどの金と人材が つぎ込まれることになるのか――と。
そこに、ふいに能天気な陽春の日光が射し込んできた。






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