necessary - なくてはならないもの -






バレンタインデーの起源は、紀元3世紀のローマ。皇帝クラウディウス2世の治世に遡ると言われている。
結婚をして家庭を持つと、兵士たちが命を惜しむようになり、その士気が下がる。
そう決めつけたローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、帝国軍の兵士たちに 結婚を禁じた。
だが 愛する人との結婚を望む兵士は多く、彼等のために、キリスト教の司祭ウァレンティヌスは、皇帝の命令に背いて、婚姻の秘蹟を執り行ない続ける。
それが原因で、彼は処刑された。

彼の処刑の日が2月14日。
そのウァレンティヌスに ちなんだバレンタインデーは、皇帝の命に背いても結ばれることを願う二人の日。
愛し合う恋人同士の日である。
そのバレンタインデーに、義理チョコ、自己チョコ、友チョコ等が横行闊歩するのは、日本がキリスト教国ではなく、多宗教の国だからなのかもしれない。

世界標準では、恋人同士の日。恋人にプレゼントやカードを贈り合う日。
日本標準では、恋人に限らず、主に女子が、大好きな人にチョコレートを贈る日。
今年も巡ってきた2月14日、聖バレンタインデー。
ナターシャは日本で暮らしているので、もちろん 日本標準に従った。
つまり、恋人ではなく、大好きなパパに、チョコレートを贈ったのだ。

世界標準では恋人同士の日であるバレンタインデーに、娘からバレンタインチョコレートを贈られた父親が、この地上世界に どれほどいたのかは わからない。
おそらく、世界規模で見れば、ごく少数だったろう。
氷河は、娘からバレンタインチョコレートを贈られた、数少ない父親の一人。
地上世界に ごく少数しかいない、幸福な父親のうちの一人だった。


大好きなパパのために、ナターシャは、一生懸命 バレンタインチョコレートを準備した。
お店で買ったチョコレートをパパに渡すだけでは駄目なことは、ナターシャには わかっていた。
お店に行って、「これ」と言って、マーマに買ってもらったチョコレートは、ナターシャのプレゼントたり得ないのだ。
パパに“ナターシャのチョコレート”を贈るためには、ナターシャ自身が何かをしなければならない。
でなければ、ナターシャの心はパパに伝わらない。
パパを大好きな気持ちを確実にパパに伝えるには、どうしたらいいか。
ナターシャは、いつもの通り、何でも知っている賢いマーマに相談した。

「マーマ、どうすればいいと思ウ? どうすれば、ナターシャは、ナターシャのプレゼントをパパにあげられるカナ?」
「んー……そうだなあ。ちょっと手間がかかるけど、チョコで絵を描いてみるのは どうだろう? ホワイトチョコのキャンバスに、色々な色のチョコペンで絵とメッセージを描くの。チョコのキャンバスは お絵描き帳みたいに大きくないし、チョコペンは色が限られてるから、いつもみたいに 絵を描くのは難しいかもしれないけど……」
「チョコの絵?」

さすがは何でも知っている お利口なマーマ。
賢いマーマは、“大好き”を伝える方法も知っている。
それは素敵なアイディアだった。
お絵描きが大好きなナターシャは、俄然 やる気になったのである。
もともと やる気満々だったのだが、実際に何をすればいいのかが わかったので、もっと やる気満々になった。
マーマは その日のうちに、チョコのお絵描きセットをナターシャに買ってきてくれた。
もちろん、パパには内緒で。

ホワイトチョコレートのキャンバスは、A5サイズ。
ナターシャがいつも使っているお絵描き帳の4分の1しかない。
チョコペンの色は、赤、黄、青、緑、黒、白の6色だけ。
チョコペンはクレヨンと違って 一定の太さで描かなければならず、なかなか扱いが難しそうだった。
小さなキャンバスに、いつものように、パパとマーマとナターシャ、三人の絵を描くのは無理そうなので、ナターシャは人物はパパだけを描いて、その左右にナターシャとマーマの代わりに花を描くことにした。
メッセージは もちろん、『パパ、大すき』である。
パパに“大好き”な気持ちを伝えるために、ナターシャは とても真剣に、一生懸命、ホワイトチョコのキャンバスに向き合ったのである。


そうして迎えたバレンタインデー当日。
「パパ、パパ。ハッピーバレンタインダヨ!」
と言って、ナターシャは力作チョコを氷河に手渡した。
額縁模様のギフトボックスは、表面が透明なフィルムで覆われていて、箱を開けなくても中身が見えるようになっている。
一目で ナターシャの お手製とわかる バレンタインチョコレート。
一目見ただけで、氷河には ナターシャの“大好き”が伝わった。

「お、すごい。これはチョコレートの絵か?」
ナターシャの絵に関して、テーマやモチーフの解釈から真贋の判断まで、氷河はプロの鑑定士である。
ナターシャが何を描いたのか、氷河には すぐにわかった。
「先週 行ったスカイツリーのスケートリンクにいる俺の絵だな」
多分、それがわかるのは、この広い世界に氷河と瞬の二人だけだろう。
ちゃんと わかってくれるパパが、ナターシャは大好きだった。

「パパ、大当たりダヨ! パパ、大好き!」
「無論、わかる。ナターシャが一生懸命 この絵を描いてくれたことも」
「ウン。ナターシャ、昨日と おとといと、その前と、おやつも食べないで描いたんダヨ!」
「俺が、両手に花を持ってる。瞬とナターシャだ」
さすがはパパ。
ナターシャの頬は、嬉しくて ぽかぽかと熱くなり、紅潮してきた。
「マーマはピンクのお花で、白いチョコと赤いチョコで描いたヨ。ナターシャはオレンジ色のお花で、赤いチョコと黄色チョコで描いたノ」
ナターシャの力作バレンタインチョコレート。
チョコレートに込められた“大好き”がパパに伝わったことを喜んでいるのは、無論、ナターシャだけではない。

「ナターシャは 本当に絵が上手だ。しかも、色を混ぜて新しい色を作るなんて工夫もできる。さすがは俺と瞬の娘」
「ウン、アノネ。ナターシャ、最初は、手が滑って 赤と青が混じっちゃったんダヨ。そしたら、紫色のチョコになったカラ、別の色を混ぜれば 別の新しい色を作れるかもしれないって思ったノ」
「ミスから学ぶとは、ナターシャは本当の意味で天才だな。ありがとう、ナターシャ。俺は世界でいちばん幸せなパパだ」
誇張ではなく本心から、氷河は そう感じ、そう信じていた。
「うふふ」
それが わかるから、ナターシャも嬉しい。
心底から、一片の翳りもなく嬉しい。
実際、その瞬間、氷河とナターシャは、世界で最も幸せな父と娘だったろう。


「マーマ! ナターシャのバレンタイン大作戦、大成功ダヨ!」
幸せで頬を上気させたナターシャは、瞬を振り返り、弾んだ声で、努力が報われたことをマーマに報告した。
ナターシャのバレンタイン大作戦を企画立案し、ナターシャがパパに見付からないように お絵描きできるように協力してくれたのは、マーマだったから。
氷河を、世界一 幸福なパパにしてくれたナターシャに、瞬が にっこりと微笑む。
「氷河を大好きなナターシャちゃんの気持ちが、いっぱい ぎゅうっと込められたチョコだもの。氷河には ちゃんと、ナターシャちゃんの“大好き”が伝わるよ」
「ウン!」
力強く頷くナターシャの向こうから、氷河の目配せが、瞬の許に届く。
自分とナターシャを世界で いちばん幸せなパパと娘にしてくれたのが 瞬であることを、氷河は知っていた。
自分の幸せが いつも、瞬から出ていることを、氷河は知っているのだ。






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