「その歳で、パパとマーマの倦怠期の心配までしてあげるなんて、ナターシャちゃんは ほんとに よくできた娘よねえ」
マーマが次に夜勤になった日、パパがお店に出ている間、蘭子ママの家に預けられたナターシャは、早速、マーマがときめきを忘れてしまったせいで、パパとマーマがケンタイキになってしまったことを、蘭子ママに相談した。

ちなみに、蘭子ママ自身は、ナターシャのパパとマーマより ちょっとだけ長く生きているが(と、蘭子ママは言った)、ときめきを忘れたことは一日たりともないという。
「氷河ちゃんに ウチで働いてもらうようになってから、イケメンとの遭遇率が格段に上がったのよね。アタシは、ときめきを忘れてる暇なんかないわあ」
と、蘭子ママは楽しそうに言った。
“マーマのときめき復活大作戦”の成功に向けて、蘭子ママは 何だか すごく頼りになりそうだと、ナターシャは期待に胸を弾ませたのである。

しかし、蘭子ママの場合と、ナターシャのパパとマーマの場合は、問題が微妙に違うらしい。
「けど、瞬ちゃんの場合は……」
蘭子ママは、少し難しそうな顔になった、
「瞬ちゃんは、アタシと違って、毎日 違うイケメンに会えても喜ばなさそうよね。イケメンなんか見飽きてるでしょうし、それ以前に、瞬ちゃんは、イケメンだから氷河ちゃんを好きになったってわけでもなさそうだし」
「ン……ウン……」

蘭子ママの言う通り、マーマは多分、イケメンを好きではない。
嫌いでもないだろうが、イケメンには ときめかない。
マーマが蘭子ママのように イケメンに ときめくタイプの人間なら、マーマは毎日パパに ときめいているはずだった。
パパはせっかく すごくイケメンでカッコいいのに、マーマには それは ときめきの材料たり得ないのだ。

ナターシャが落胆の吐息を洩らすと、蘭子ママは そんなナターシャを見て、小さく苦笑した。
それから、大きな身体を少し困ったように丸めて、呟くように言う。
「瞬ちゃんが ときめきを忘れたのは、もしかすると ナターシャちゃんのせいかもしれないわよ」
「エッ」
それは、いったい どういうことだろう。
ナターシャがイケメンではないから、マーマは ときめきを忘れてしまったということなのだろうか。
意味がわからず、上目使いに蘭子の顔を見上げたナターシャに、蘭子ママは その顔を ますます困ったようなものにした。

「瞬ちゃんは とっても責任感が強い子でしょ。だから、ナターシャちゃんのマーマになった時に、ナターシャちゃんを 絶対に お利口な いい子に育てなきゃならないって決意したんだと思うの」
「ウン。マーマは いつもそう言ってるヨ。子供をジリツできる大人にするのが、親の務めなんだっテ。パパみたいに甘やかしてるだけじゃ駄目なんだっテ」
それが本当の意味で ナターシャちゃんを幸福にすることだと言うマーマに、パパはいつも真面目な顔で頷く。
けれど、その1時間後には、ナターシャの おねだりに負けて、パパは 甘いジュースをグラスに注いでくれるのだ。

「それで、瞬ちゃんは、ナターシャちゃんを立派な いい子に育てることに一生懸命になって、ま、ぶっちゃけ、氷河ちゃんのことはどうでもよくなっちゃったのよ」
「……」
蘭子ママの言うことは、あまり難しいことではなかった。
知らない言葉は 一つもない。
『ぶっちゃけ』の意味も、ナターシャは知っていた(『ぶっちゃけ』は、マーマではなく星矢ちゃんに教えてもらった)。
知らない言葉は一つもないのに――ナターシャは、蘭子ママの言うことの意味が よくわからなかったのである。
否、わかったが、わかりたくなかったのだ、ナターシャは。

「瞬ちゃんは、ナターシャちゃんを立派な いい子に育てることに夢中。長い付き合いの氷河ちゃんには飽きて、倦怠期突入。どこの家でも よくあることよ」
「よそのおうちが そうだからって、ナターシャのおうちもそうなっちゃ、困るんダヨ! マーマのときめきが復活しないと、パパは だめだめパパになって、ナターシャは パパと一緒にいられなくなっちゃうんダヨ!」
「氷河ちゃんが立派なパパになればいいだけのことでしょう」
「そんなの無理ダヨ!」

パパはカッコいい。
そして、多分、マーマの次くらいに強い。
だが、パパは 立派なパパにはなれないのだ。
それはナターシャにもわかった――わかっていた。
パパは、一人で 立派なパパになろうと思っていないから。
立派なパパになりたくないから、パパはマーマを必要としている。
あるいは、“マーマの援護つきで、何とか普通レベルのパパであること”が、パパの理想なのだ。

「そうねえ。確かに、氷河ちゃんが立派なパパになるのは、ちょっと無理そうよね。でも、そうすると、瞬ちゃんに ときめきを取り戻させる いちばん いい方法は、瞬ちゃんと氷河ちゃんを二人きりにしてあげることかもしれないわよ。ナターシャちゃん、いっそ、うちの子になる? そうすれば、瞬ちゃんは ナターシャちゃんのマーマになる前、氷河ちゃんの恋人だった頃の ときめきを思い出すかもしれないわ」
「パパとマーマを二人きりに……?」

それは、パパとマーマにとって ナターシャは邪魔者だということなのだろうか。
ナターシャがいなくなれば、マーマは ときめきを取り戻せるということなのか。
そんなことがあっていいのだろうか。
「ソンナ……ソンナのって……! パパはマーマが大好きなんダヨ! ケンタイキ、嫌なんダヨ! なのに、マーマのケンタイキは ナターシャのせいなの……」
ナターシャは悲しくて悲しくて、泣いてしまいそうだった。

パパはマーマが大好きで、マーマに ときめきを取り戻してほしいと思っている。
マーマがときめきを取り戻さず、パパに飽きて、パパと一緒にいてくれなくなったら、パパはだめだめパパになってしまう。
パパが だめだめパパになると、ナターシャはパパと一緒にいられなくなる。
だから、ナターシャがパパと一緒にいられるようにするために、ナターシャは マーマに ときめきを思い出してもらいたいのに、マーマに ときめきを思い出してもらうためには、パパとマーマの側にナターシャがいてはならないのだ。

これは究極の選択だった。
ナターシャが パパとマーマと一緒にいて、マーマにときめきを思い出してもらうのを諦めるか、それとも、ナターシャが よそのおうちの子になって、マーマにときめきを思い出してもらうか。
前者は、ナターシャは パパと一緒にいられて幸せだが、マーマが ときめきを思い出してくれないので、パパはしょんぼり。
後者は、マーマがときめきを思い出すので、パパは喜ぶが、パパと一緒にいられなくなるナターシャは悲しい。
ナターシャの幸せと パパの幸せ。
これは、その二つのどちらかを選ぶ、究極の選択だった。


ナターシャの幸せと パパの幸せ。
パパの幸せと ナターシャの幸せ。
その二つのうちの どちらかを選ぶことは難しくて、その二つのうちのどちらかを諦めることは苦しくて、ナターシャは迷った。
多分、生まれてから 今まで生きてきたうちで いちばん深く、いちばん大きく、いちばん長く、悩んだ。
悩んで迷って、迷って悩んで、そして、ナターシャは決めたのである。

悲しくて、泣きながら眠った その夜。
翌朝、蘭子の家にナターシャを迎えにやってきた氷河に、胸も張り裂ける思いで、ナターシャは告げたのだった。
「ナターシャ、蘭子ママのうちの子になる!」
「あ……?」

最初の数秒間、氷河はナターシャに何を言われたのかを理解しかねているようだった。
数秒後、何とか理解して、氷河は その場に ひっくり返った。


パパの幸せのために 自分の幸せを断念することは、大好きなパパのために そうしなければならないとわかっていても、ナターシャには これ以上ないほどの苦難だった。
その決意をするためには、尋常でない力を要した。
気力、体力、思考の力、理性の力、感情の力、すべての力を ほぼ使い切って疲労困憊だったのに、目の前でパパに ひっくり返られて、ナターシャは 頭も心も大混乱状態になってしまったのである。

「パパ、パパ、どうしたのっ !? 目を開けて、パパ! パパ、死なないでっ!」
泣きながら パパに取りすがり、パパを呼ぶナターシャを見て、蘭子は 自分の冗談の度が過ぎたことに気付き、急遽 マリアナ海溝より深く反省したのである。
「ナターシャちゃん、大丈夫よ。氷河ちゃんは生きてるから。今、瞬ちゃんを呼んだわ。すぐに瞬ちゃんが来てくれるから、ナターシャちゃん、落ち着いて」
「マーマ……来る……?」
「ええ。『すぐ、行きます』って、言ってた。ナターシャちゃんと氷河ちゃんのピンチなんだもの。すぐに来てくれるわ」
「マーマ、来る……よかった……」

マーマさえ来てくれれば、パパは すぐに生き返る。
マーマが来れば、マーマが すべてを よくしてくれる。
蘭子の言葉を聞いて、ナターシャは安堵したのだろう。
にこりと笑って、ナターシャは、卒倒している氷河のすぐ脇に へたり込んだ。
そして、そのまま、極度の緊張から解放されて 意識の糸が ふっと緩んだように、ナターシャは氷河の胸の上に こてんと倒れ、寝入ってしまったのだった。






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