「ときめき、ねえ……」
瞬は、ナターシャの眠るベッドの横で、溜め息混じりに ぽつりと呟いた。
呆れているのか。
呆れているのだとしたら、それは どういう呆れ方か。
『いい歳をして、ときめきなど求めるな』という呆れ方か、『そんなことを、子供に愚痴るな』という呆れ方か。
そのどちらなのかを知るのが嫌だったからだろう。
氷河が、
「おまえ、俺を見て どきどきすることがあるか?」
などという、馬鹿げた質問を瞬に投げかけてきたのは。
瞬は、その馬鹿げた質問を 軽く捌きながら 微苦笑を浮かべた。

「氷河は何をしでかすか わからないから、僕は いつもどきどきしてるけど」
「それは ひやひやだ。ひやひやじゃなく、どきどき」
「どきどきも ひやひやも違わないでしょう。僕は、氷河のせいで いつも緊張してるよ」
“どきどき”も“ひやひや”も、心身が緊張しているという点では、大きな差異はないだろう。
とはいえ、“ひやひや”を ときめきの一形態として 同類項にくくるのは、さすがに無理がある。
が、結局 論破の突破口を見付け出せなかったらしい氷河は、アプローチの方法を変えてきた。

「俺は、おまえのためになら死ねるぞ」
「僕もだけど……。氷河は死んじゃ駄目だよ。ナターシャちゃんのためにね」
瞬の返答に、氷河が また むっとした顔になる。
氷河が聞きたいのは、そういうことではないのだ。
アテナの聖闘士たちが、仲間のため、世界の平和を守るために死ねることは わかっている。
その時が来たら、氷河は瞬のために、瞬は氷河のために、命をかける。
それは、今更 改めて言及するようなことではない。

氷河が知りたいのは、緊急時に 実際に死ねるかどうかではなく、平時における恋する者としての心構え、気分、乗り。
『この恋に命をかけている』という、考えようによっては馬鹿げたセリフを、恋の熱にうかさされて言えるかどうか。
更に端的に言うなら、氷河は瞬に、『おまえは恋をしているか』と問うてきているのだ。

それは、瞬には わかっていた。
いくつになっても貪欲で気まぐれな この恋人が、瞬に 心の底から込み上げてくるような深く長い溜め息をつかせた。
その溜め息を すべて吐き出してから、健気な ナターシャの瞼の上に据えていた視線を氷河の方に巡らせ、瞬は 再度 小さく吐息した。
氷河の青い瞳は、いつも真剣だから (たち)が悪い。
視線を、瞬は 僅かに氷河の瞳から 脇へと逸らした。
氷河を なだめるために、ゆっくりと 静かに語り始める。


「十二宮の宝瓶宮でのカミュとの戦い、ポセイドン戦の北氷洋の柱でのアイザックとの戦い、厳島神社での戦いでも そうだった。氷河は いつも自分の前に立つ人のことしか目に入らず、他のことを忘れる。周囲のことも、戦いの大局も、アテナのことも、仲間のことも、僕のことも忘れる。そして、傷付いて、僕のところに帰ってくる。その繰り返し」
「……」
“だめだめ”なのに、氷河は頭の回転は速い。
瞬のその言葉を、『そんな男に、恋人が ときめきを忘れたからといって、責める資格はない』という主張だと、氷河は解したようだった。
「そして、今はナターシャか。怒っているのか」
「まさか」

そうではないのだ。
責めているわけではない。
いっとき 忘れられることも、思い出すと 悪びれもせずに帰ってくることも、それは それだけのことだった。

「僕は、氷河に大切な人がいると安心する。氷河は その人に夢中で、後先考えずに無茶をするけど、その無茶ができることが氷河の幸せなんだよね。氷河が僕のところに戻ってくるのは、氷河が寂しい時で……」
「瞬……」
責めてはいないということが、氷河には通じていないようだった。
こんなことは 最近では珍しい。
思いと言葉と理解の すれ違い。
まるで 十代の頃の、恋を始めた頃の二人に戻ったようだと感じ、瞬は “通じない氷河”に 奇妙な ときめきを覚えた。

「俺は、おまえがいるから生きていられるんだ。おまえなしでは生きていられない。知っているだろう。ガキの頃から そうだった。おまえは俺にとって、なくてはならないもの――ネセサリーというやつだ」
「嵐が丘だね」
エミリー・ブロンテの『嵐が丘』で、最も有名な文章。
主人公のキャサリンは、決して結ばれることのない、だが同じ魂を持つ恋人ヒースクリフを、『わたしにとって、彼は、なくてはならないもの』と評する。
そして、『私は ヒースクリフなのよ!』と叫ぶのだ。

「『嵐が丘』の二人とは違って、僕と氷河は それぞれに独立した別の個人だけど」
そう前置きをして、瞬は 氷河の誤解を解く作業に取り掛かった。

「ナターシャちゃんが氷河のところに来て、まもない頃――公園で、ナターシャちゃんと遊んでいる氷河を見ていた時にね。あの時、氷河は、僕が そこにいることなんか すっかり忘れて、ナターシャちゃんと夢中になって遊んでた。その時に、僕は本当に氷河が好きなんだなあ……と思ったんだよ。氷河に忘れられてるのに、癪だと思いもせず、腹も立たず――。氷河が夢中になれるものに夢中でいて、それが嬉しい。ナターシャちゃんが、カミュやアイザックでもきっと同じだったろうと思った。僕の目の前で、僕を無視して、二人だけの世界に没入されても、きっと僕は腹も立たない。もちろん、氷河が命を粗末にしたら叱るけど」
「……」
「気の向いた時だけ、僕のことを思い出して、僕のところに来て、僕のことを好きだっていう、最低な恋人。でも、僕にとっても、氷河は なくてはならないもの……なんだろうね」
「瞬……」

氷河を責めているつもりはなかったのだが――氷河は、『もし瞬が ときめきを忘れたとしても、そのことに不平を言う資格は 自分にはない』と思う心境に至ったらしかった。
今日の氷河は 本当に、14歳の あの頃に戻ってしまったかのように、理解のピントがずれている。
それも誤解だと、瞬が言おうとした時。
「マーマ。パパはサイテーなコイビトなの? マーマは、ナターシャのせいでパパに ときめかなくなったの?」
いつのまにか目覚めていたらしいナターシャが、不安そうな目をして、瞬の顔を見詰めてきた。

「ナターシャちゃん……」
自分の幸福より パパの幸福を選んだ小さな少女は、たった今も、パパの幸せを望んでいる。
自分が その障害になっているのだと思い込み、彼女の瞳は 不安でいっぱい。
ナターシャのために、瞬は できる限り大きく首を横に振り、できるだけ明るい笑顔を作って、彼女に言った。

「ナターシャちゃん。僕が氷河を嫌っているなんてことはないよ。僕は ときめきを忘れてないし、僕と氷河は倦怠期でもない。氷河は誤解して、大事なことを忘れているんだ」
『だから、僕のときめき復活大作戦は、最初から必要なかったんだよ』と 瞬が告げると、ナターシャは、一瞬、驚きと喜びと困惑が入り混じったような表情になり、最後に、それは本当だろうかと疑っている目を、瞬に向けてきた。

「マーマ、ケンタイキじゃないノ? マーマ、パパに ときめかなくなったんじゃないノ? ほんと?」
「ほんと」
「ほんとに ほんと?」
「ほんとに ほんとに ほんとに ほんと」
そこまで『ほんと』を重ねられて、ナターシャは やっと疑いの心を放棄してくれたようだった。
「だから、ナターシャちゃんは、蘭子さんのうちの子になったりしないで、ずっと 僕と氷河のうちの子でいてね」
瞬に そう言われたナターシャは、この冬場に、盛夏のひまわりの花のように全開の笑顔を咲かせた。
そして、ベッドの上に起き上がり、枕元の椅子に座っている氷河と ナターシャのベッドに腰掛けている瞬の顔を交互に覗き込む。
不安が消えた彼女の瞳は、今は好奇心でいっぱいだった。

「ソレデ、パパは何を忘れてるの?」
「うーん、それがね……。実は、今年だけでなく、ナターシャちゃんが僕たちのところに来てくれる前も、僕はバレンタインデーに氷河にチョコレートをあげたことはなかったんだ。氷河は それを忘れてるんだよ」
「ソ……ソーナノ……?」
日本標準では、恋人に限らず、主に女子が、大好きな人にチョコレートを贈る日。
去年までは毎年 もらえていたチョコレートを 今年は もらえなかったから、パパはしょんぼりしているのだと、ナターシャは思っていた。
だからこそ、マーマは ときめきを忘れてしまったのかと、パパは心配しているのだ――と。
だが、そうではなかったらしい。

首をかしげるナターシャの前で、
「言われてみれば……」
と、氷河が呟く。
その呟きは、一瞬で、フリージングコフィンより硬く冷たく凍りついた。
「去年までは、俺の方が、おまえにチョコレートやプレゼントを贈っていた……。『いつも ありがとう』の感謝のカードつきで……」
「確か、そうだったね」
瞬が冷ややかに頷く。
氷河の顔は、これ以上 凍りつく余地がない。

つまり、そういうこと。
バレンタインデーを忘れていたのは、瞬ではなく氷河の方だったのだ。
「いや、それは……ナターシャとおまえが 隠れて、何か企んでいるようだったから、それが気になって、つい……。決して、おまえへの愛と感謝を忘れたわけではない。ただ、つい、うっかり、その……」
一つのことが気になると、他のことを すっかり忘れてしまう氷河の悪い癖。
その悪い癖が、よりにもよってバレンタインデーに炸裂してしまったのだ。
だというのに、それを、勝手に、瞬が ときめきを忘れたせいと思い込み、落ち込み、それだけなら まだしも、幼い娘に愚痴ることまでできてしまうのは、もはや一種の才能である。

「パパッ!」
世界一カッコよくて、世界で二番目くらいに強いのに、どうしてパパは こんなに だめだめなのか。
パパを大好きな気持ちは 1ミリたりとも動かないが、大好きだからこそ、ナターシャの心は へなへなになってしまったのである。
そんなパパに比べて、
「僕とナターシャちゃんが一緒にいてあげないと、氷河は だめだめパパどころか、だめだめ人間になっちゃうから、僕とナターシャちゃんは いつまでも氷河と一緒にいてあげようね」
と、微笑みながら言うマーマの 何と頼もしいこと。

このマーマの力強い愛に報いるため、3月のホワイトデーには、パパと一緒に、マーマへの素敵な“ありがとうプレゼント”を用意して、だめだめパパの“サイテーなコイビト”のオメイをヘンジョーしなければ。
世界一よくできた娘のナターシャは、愛するパパのために、そう決意したのである。
どんなに だめだめだめだめパパでも、ナターシャにとって パパは necessary ――“なくてはならないもの”だから。






Fin.






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