名前としては、『鎮(しずむ)』の方が稀少なので、先に現世での居所がわかるのは 源鎮の方だろうと、思うともなく思っていたのだが、案に相違して、先に見付かったのは植本華の方だった。
彼女は、都内の植物状態の患者専用の療護センターに入院していた。
瞬の推察通りに。
もっとも、瞬の推察通りだったのは そこまで――もとい、それだけだった――のだが。

植本華。
彼女は、幼児期から自閉症を疑われていた子供だったらしい。
知能は 至って普通なのだが、とにかく無感情、無表情。
10歳を過ぎた頃から、そこに無気力が加わる。
18歳で、ほぼ寝たきりになった。
ただし、意識は維持されていた。
20歳になってまもなく、ベッドから落下し、意識を失う。
彼女が“寝たきり”から“植物状態”になったのは その時で、それから20年近くが経過。
黄泉比良坂で20歳前後に見えていた華の実年齢は40歳だった。

水や栄養投与のための管が幾本も繋がれている華は、痩せて 貧相。
療護センターのベッドの上に横たわっている華は、瞬が 黄泉比良坂で会った女性とは別人のようだった。
生者の世界にいる時より、冥界への入り口である黄泉比良坂にいる時の方が 生き生きしているという、この皮肉。
だが、それは確かに植本華当人だった。
顔立ちは同じ――面影があるのだ。
華は、20歳の時の自分の姿しか知らないのだから、黄泉比良坂での彼女が若いままなのは 当然のことなのかもしれない。
黄泉比良坂にいる人間に、実体はないのだから。
おそらく彼女は、栄養剤を投与されて 肉体に活力が戻ると、死気より生気の方が勝り、本来は死者の居場所である黄泉比良坂から 姿が消えてしまうのだろう。

「彼女は、脳のどの部分に問題があるんですか?」
瞬が尋ねると、瞬より年若い療護センターの担当医師は(彼自身は、瞬が自分より年上だとは思っていないようだったが)、
「問題はないんです」
と答えてきた。
脳に問題がないのに、人間が植物状態になるわけがない。
彼は、『(脳に)問題はない』ではなく、『問題を見付けられずにいる』と答えるべきだった。
仮にも医師であるなら。

――と、指摘するわけにもいかないので、瞬は 困ったように首をかしげることで、より詳しい説明を彼に求めたのである。
若い医師は、瞬のその希望には応えてくれた。
「彼女は、植物状態になる以前から、無表情、無感情、無気力、寝たきりで、『いつか 私は何も感じなくなる』と言っていたそうです。もしかしたら――もともと 自閉症という診断が間違っていたのかもしれませんが、植物状態になった 直接のきっかけが物理的な強い衝撃でしたし、色々な要因が複合的に作用し合いって、こんなことになっているのではないかと――」
“色々な要因”が何であるのかは わからない。
そして、どうやら彼は、それを突きとめようとはしていないようだった。
それが植本華の事情。

20年間、ただ命を繋いでいるだけ。
身体は歳をとっていく。
こういった療護センターやホスピス等、患者の治癒の喜びに接する機会が極端に少ない施設で働く医師の宿命なのだろうが、この若い担当医師も、『自分は、彼女を死なせてやるべきなのではないのか』、『彼女の生に、いったい どんな意味があるのか』と、少なくとも彼女に関しては、そればかりを考えているようだった。
回復の見込みはないと決めつけ、回復させてやろうという考え自体を、彼は既に持っていない。

「血液分析の結果はどうだったんですか?」
「血液分析?」
答えを聞くまでもなく、彼が植本華の血液分析を行なっていないことがわかった。
瞬は、この若い医師に、少しく 苛立ちを覚えてしまったのである。
「20年前なら わからなかったかもしれませんが、今なら、遺伝子異常の有無くらい、ごく短時間で調べられるでしょう。彼女の症状は、葉酸の代謝に関わる部分の常染色体劣性遺伝性疾患に似ています。脳の働きを維持する葉酸の不足によって、脳の働きが鈍り、感情や意思が損なわれる疾患です。他にも考えられる遺伝子異常が幾つかありますね」

きつく言ったつもりはなかったのだが、瞬に そう言われて、若い医師は、はっとしたように顔を上げた。
そして、瞬の瞳に出会うなり、すぐに 恥じ入るように視線を逸らす。
「すぐに手配します。すみません」
彼は いったい誰に謝っているのか。
ともかく、彼は、誰かに対して 済まない気持ちになり、自分にできることをする決意をしてくれたようだった。



植本華の血液分析の結果が 瞬の許にもたらされたのは、瞬が 華のいる療護センターを尋ねた5日後。
華の担当医は、その言葉通り、彼が 華の担当医として為すべきことに、“すぐに”取り掛かったらしい。
瞬は 頃合いを見計らって療護センターを再訪するつもりだったのに、彼は 華の血液分析の結果の資料を、わざわざ瞬が勤務する光が丘病院まで持参してくれた。

「瞬先生の お見立て通り、葉酸の代謝に関わる部分の常染色体劣性遺伝性疾患でした。分析を依頼した遺伝子検査師も、これは症例が まだ非常に少ない上、発見されたのも ほんの数年前のことで、ただ漠然と調べていたら 見逃していたかもしれないと言っていました」
「そうですか。すみません。お忙しいのに、無理を言って」
原因がわかれば、治療も始められる。
植本華は、生き返ることができるだろう。
瞬は ひとまず安心したのである。
療護センターの医師は、そんな瞬の前に急に直立不動態勢になり、深く頭を下げてきた。

「これまで 私はずっと、自分が 尊厳死の許されない国の姥捨て山に勤めているように感じていたんです。今の療護センターに勤めるようになって3年が経ちますが、その間、回復した患者は一人もいなかったので……。けれど、私は間違っていました。医療技術は日進月歩している。私は姥捨て山の番人なんかではなく、入所患者の回復の可能性を探る医師で、誰よりも最新の医療情報に注意していなければならなかったのに、それを怠っていた。恥ずかしい限りです」

もしかしたら、その反省の弁を 瞬に直接言うために、彼は わざわざ光が丘病院まで出向いてきてくれたのだろうか。
そうなのかもしれなかった。
彼は、そもそも、華の血液分析の結果を瞬に知らせる義務は無いし、瞬の助言への礼なら、電話1本で済むことなのだ。

「今、療護センターの担当数名で、植本さんの治療方針について話し合っています。それで彼女が意識を取り戻し 完治して、幸福になれるかどうかは わかりませんが……。彼女の場合は、身体の回復より、メンタルのケアの方が難しいのかもしれません。ですが、とにかく、我々にできる限りのことをしようと思っています」
まるで 医学の道を志す決意をしたばかりの学生のように 瞳をきらめかせて言う 彼の様子が、瞬の顔を ほころばせた。

「眠った時は20歳だったのに、目覚めたら40歳になっていたら、植本さんの衝撃は大きいでしょうね……。身体だけでなく 心も快癒させなければならないなんて、本当に大変で 困難なお仕事だと思いますよ」
まるで 医学の道を志す決意をしたばかりの学生のようだった若い医師は、瞬に そう言われると、今度は、困っている お友だちを助けてあけたことを先生に褒められた幼稚園児のように 嬉しそうな笑顔になった。






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