黙り込んでしまった氷河と、自分の望みを言葉にしてしまえずにいる一輝、何を言えばいいのかわからずにいる瞬。 次に口を開いたのは、氷河でも一輝でも瞬でもない、マーマでした。 マーマは 一輝に、 「4年振りくらいかしら。あの時は、名前も教えてもらえなかった」 と、懐かしそうな目をして言いました。 「あの時は、私と同じくらいの背丈だったのに、今は見上げるほど。子供が大きくなるのは早いわね」 一輝が――今はマーマが見上げるほど大きくなった一輝が(マーマも一輝も椅子に座っているのに!)、マーマの前で項垂れます。 一輝が自分の望みを言葉にできずにいたのは、その4年前のことがあったから――だったのです。 4年前、アテナの加護を得てパンドラを倒した一輝は、パンドラに代わってヒュプノスやタナトスが瞬をつけ狙うようになることも知らずに、一度 瞬を連れ戻すために小ルーシに来たことがありました。 その頃、瞬は、小ルーシの学校に入って、様々な分野で画期的なアイデアを出し、小ルーシ始まって以来の秀才、神童と称賛されていたのです。 『瞬ちゃんは今、立派な学校に入って 大切な勉強をしているの。あなたと一緒に行ったら、そのお勉強を中断しなければならなくなってしまうわ。ね、だから、あなたが ここで暮らすことにしましょう』 瞬を連れ戻しに来た一輝に、氷河のマーマはそう言ったのですけれど、一輝は黙って一人で姿を消してしまったのだそうでした。 「なぜ」 呟くように 問うた氷河を、一輝は憎々しげに睨みつけました。 そして、悔しそうに言いました。 「おまえと おまえのマーマと一緒にいる瞬は、幸せそうに笑っていた。本当に幸せそうに笑っていた。俺は、瞬を狙う冥界の脅威がなくなり、瞬の身が完全に安全になったら、瞬を 自分の手許に引き取って、兄弟で暮らすつもりでいたんだ。だが、もしそうできても――瞬と二人で暮らせるようになった時、俺は あんなふうに瞬に幸せそのものの笑顔を浮かべさせてやることができるだろうかと不安になった。不安になって……そして、無理だと思ったんだ……」 瞬を狙う冥界の脅威をすべて退けることができたら――そう できても、自分は黙って瞬の前から姿を消すしかないのだと、その時 一輝は悟ったのです。 「幼い頃、瞬を守るためとはいえ、他人の手に瞬を委ねた時、俺は瞬の兄である資格を放棄した。だから 俺は、一人で生きていくしかないのだと、あの時 悟ったんだ」 声を出すのも つらそうに、一輝は そう言いました。 どうして一輝が自分の望みを口にしないのか、その時、氷河は初めて知ったのです。 そんな一輝に、氷河が何か言う前に、 「そんなこと、ありません!」 瞬が叫んでいました。 「僕は、兄さんが僕のために そんなつらい思いをしていることもしらず、氷河とマーマの許で 呑気に幸せに暮らしていた……。僕は……僕は、兄さんに何て言って詫びたらいいのか……」 瞬の瞳は涙でいっぱい。 「詫びる必要などない。俺が望んだことだ」 素っ気ない一輝の言葉が、瞬の瞳から 涙をあふれさせました。 その時、氷河は――氷河は、とても慌てていたのです。 十数年間、自分が兄に守られていたことを知った瞬は、自分が兄に守られていた時間分の幸福を、兄のために取り戻そうとするでしょう。 そのために、兄と一緒にいようとするでしょう。 このままでは、瞬を一輝に取られてしまう。 そんなことになったら、自分は生きていけない――と。 氷河は、一輝と違って、幸せに慣れていました。 瞬とマーマと一緒にいられる幸せに慣れていたのです。 たとえ 瞬のためにでも、瞬を失うことには耐えられそうになかったのです。 そして、マーマは――なにしろ マーマは 氷河のマーマですからね。 マーマは、氷河のそんな気持ちを ちゃんとわかっていましたよ。 マーマは、膝の上に置いていた刺繍途中のスカートをテーブルの上に移動させて 立ち上がり、椅子に掛けている一輝の側に行き、彼の肩と頭を その腕で抱き寄せ、抱きかかえて言いました。 「一人で生きていくしかないなんて、まあ、何を言っているのかしら。瞬ちゃんのお兄さんは、私の息子で、氷河のお兄さんよ。ここは あなたの家。ちょうど よかったわ。この家には使っていない お部屋がたくさんあって、困ってたのよ。瞬ちゃんも、それがいちばん嬉しいわよね」 「はい!」 さすがはマーマ。 一輝は 最愛の弟と暮らすことができ、瞬は 幸せで報いたい兄と暮らすことができ、氷河は瞬を失わずに済む方法を、瞬時に思いつき、それを さっさと決定事項にしてしまいました。 「僕、嬉しい。兄さんと一緒に暮らせるなんて」 瞳を涙で潤ませて笑顔を浮かべる瞬に、 「俺は嫌だ」 と言うことは、一輝にはできなかったのです。 そういう経緯で、氷河と瞬とマーマの家は、氷河と瞬とマーマと一輝の家になりました。 一輝は どう見ても、“家”の中で大人しく 庭木の手入れなどしているタイプではありませんでしたので、しばらくすれば、ふらりと どこかへ行ってしまうだろう。 けれど、瞬が ここにいるのだから、再び ふらりと戻ってくるだろう。 一輝は、海に出ずにいられない船。 瞬のいる この家は、一輝の港。 一輝を家族の一員として迎えた この家は、そういうものになっていくのだろう。 氷河は、そう思っていました。 見るからに―― 一輝は ひとところに腰を落ち着けられる男ではありませんでしたから。 実際、そうなっていたはずだったのです。 氷河が瞬の唇にキスしているのを、ある日 一輝が目撃するという事故(?)さえ起きなければ。 目撃してしまった一輝は、その瞬間に すべてを悟ったのです。 パンドラより、タナトスより、ヒュプノスより、冥府の王ハーデスより、氷河こそが、瞬にとって最も危険で 最も不埒で 最も破廉恥で、最も言語道断な存在なのだということを。 ですから、一輝は今でも、氷河と瞬とマーマの家にいて、瞬と氷河が二人きりになることがないよう、常に厳しく見張っています。 同じ家で暮らしているのに、氷河は、一輝が来てから 瞬と二人きりになることが ほぼ不可能になりました。 一輝は、愛する弟を守るためになら、決して油断することなく、どんな犠牲も厭わず、全身全霊をかけて、その務めを果たす男だったのです。 我と我が身の幸福を犠牲にしても 弟の幸福を守ろうとし、実際に守り抜いてくれた愛情深い兄と一緒に暮らすことができるようになって、瞬は幸せ。 4年前 引きとめることができなかった悲しくて強い男の子を 自分の息子として引き取ることができて、マーマも幸せ。 弟の幸福を守るために戦うという生き甲斐を、冥界の脅威を退けたあとも失わずに済んだ一輝も幸せ。 氷河が今 幸せなのかどうかだけは、氷河自身も よくわかっていないようです。 Fin.
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