「女王様になったのに、こんなところで」
『泣いているなんて』と言おうとして、だが、瞬には その言葉を言うことはできなかった。
瞬は泣き虫だが、エスメラルダはそうではない。
エスメラルダは、悲しいことや つらいことに直面しても、涙を耐える少女だった。
亡き父王が ことのほか涙を嫌っていて、涙を見ると機嫌を悪くし、粗暴になることが多かったから。
「瞬ちゃん……」

デスクィーン島は、その海域では最も大きい島で良港にも恵まれているが、良港があるからこそ 国として成り立っている部分もあり、それゆえ デスクィーン王国は すべてにおいて港優先の国。
王宮は、大型船が停泊できる港の反対側に押しやられ、その裏庭が遠浅の浜になっている。
瞬は、身寄りのない孤児で、デスクィーン島の隣りのアンドロメダ島で、アテナの聖闘士になるための修行中。
泳ぎの練習のため、瞬が初めてアンドロメダ島からデスクィーン島に泳いでやってきたのは、もう6年も前のことになるが、泳ぎ着いて上陸した その浜がデスクィーン王国の王宮の裏庭だと知らされた時には、瞬は 驚かないわけにはいかなかったのである。

遠浅の浜には、武器を搭載した大型帆船は近付けないが、人間が泳いで上陸することは極めて容易。
王宮の庭としては無防備に過ぎると、瞬は思ったのだ。
実際 瞬は、誰にも見咎められることなく、デスクィーン王国の王宮の裏庭に入ることができた。
その時 瞬を最も驚かせたのは、他島の子供が容易に侵入できるデスクィーン王国王宮の構造より、その浜で たった一人で所在無げに沖を眺めている少女が この国の王女だということの方だったが。

歳の頃は、瞬と同じ。
初めて会った時は、瞬もエスメラルダも まだ10歳になっていなかった。
エスメラルダの方が少し大人びて見えるのは、彼女が その胸中に抱えている憂いのせいだったかもしれない。
小国とはいえ、一国の王女様が、家臣や民への父王の横暴を嘆き、そんな父を恐れて止めることのできない自分の弱さを嘆いていることに、瞬は驚いたのである。
父親存命の一国の王女様は 誰よりも幸せなはずだと、孤児の瞬は思い込んでいたのだ。

『デスクィーン島は、行き交う船相手の商売をしようとする外国の商人が増えていて、デスクィーン島の民が相対的に減ってきてるんでしょ? 国の民に優しくして、王様の味方につけておかないと、何か事件が起きた時、助けてくれないかもしれない。だから、家臣や民には優しくしておいた方が自分の得になるっていう論法で迫ってみたらどうかな。横暴を責めるんじゃなく』
その時は 瞬も、幼い子供らしからぬ助言をし、
『そ……そうね。それなら、お父さんも 私の言うことに耳を傾けて、もう少し みんなに優しくしてくれるかもしれない』
エスメラルダも その助言に力を得たような様子だったのだが、結局、気弱な彼女は父王に何も言えなかったのだ。

エスメラルダの父が、かっとなって頭に血がのぼると、実の娘も平気で殺しかねないほど乱暴な暴君だということを瞬が知ったのは、それから まもなく。
勇気を持てず、せっかくの助言を実行に移せなかったと嘆くエスメラルダを 慰め、力づけたのは、瞬の方だった。
いわゆる他人の空似なのだが、瞬とエスメラルダは まるで一卵性の双子の姉弟のように顔立ちが似ていて、瞬は彼女が他人のような気がしなかったのだ。

それ以来、エスメラルダとは 6年以上の付き合いになる。
その6年の歳月を、瞬は、いつも瞳に憂いの色を帯びているエスメラルダを、会うたびに励まし、時にエスメラルダの優しさに励まされながら過ごしてきた。
今回のエティオピア王国の大船団襲来は、そんな二人が直面する最悪最大のピンチかもしれなかった。

「エティオピアの大船団が来て、無理難題を言ってるって、噂を聞いたけど……」
「瞬ちゃん! よくエティオピアの軍に見付からずに、渡ってこられたわね」
「島のこちら側にはエティオピアの大型船は来られないからね。そんなことをしたら、即座に座礁することがわかってるみたい」
エティオピア軍は、デスクィーン島周辺の地理情報を把握している。
おそらく正確な海図を持っているのだろう。
それは つまり、浅瀬に誘い込んで船を座礁させるような やり方で、エティオピア軍の戦力を殺ぐのは不可能――ということだった。

「父が、亡くなった途端の来襲……。私には何の力もないと見くびられたのね。私の非力が デスクィーン島の民に苦難を招くことになるかもしれない……」
恐怖の対象でしかなかった父王が消えた途端に、別の試練。
心優しいエスメラルダに 次から次へと降りかかってくる苦難が、瞬は憎くてならなかった。

「そんなことないよ。エスメラルダさんはとても優しい。その優しさに命を救われた人もたくさんいる。エスメラルダさんは一人ぽっちじゃない。無力でも非力でもない。力になってくれる人は、きっと たくさんいると思う」
「私のために、みんなを危険な目に会わせることはできないわ」
「……」
優しくて――気弱なほど優しすぎて――エスメラルダが国の王に向いていないのは事実だと、瞬も思う。
だが、一国の王は――王自身が強くある必要はないのだ。
王自身が 国の敵と直接 戦うわけではないのだから。

「当座の問題は、デスクィーン王国の新女王に挨拶したいというエティオピア国王の要求を受け入れるか、退けるか……。面会を拒絶すれば、無礼だと言って島を攻め、会えば、そのまま捕えられて、場合によっては命を奪われるだけだと、みんなは言うの。私は――」
「エティオピア国王はエスメラルダさんの顔を知ってるの?」
瞬がエスメラルダの言葉を途中で遮ったのは、『私は、私一人の命で デスクィーン王国の民が助かるのなら、それで構わない』という言葉を、エスメラルダに言わせないためだった。
エスメラルダと瞬は、魂の双子のようなもの。
エスメラルダが何を言おうとしているのか――そんなことは、瞬にはすぐに わかった。
言おうとした言葉を遮られたエスメラルダが、切ない眼差しを瞬に向けてくる。
瞬の気持ちがわかるからこそ、強くなれない自分が、エスメラルダは悲しいのだ。

「父がエティオピアの今の王様の戴冠式に招待された時、一度だけ 一緒に エティオピアの王宮に行ったことがあるわ。でも、父は大勢いる招待客の中の一人に過ぎなかったし、私は 更に その連れに過ぎなかったから、直接 会ったりはしなかった。でも、エティオピア国王が私を 見掛けていないとは限らない。国王はともかく、戴冠式の招待客の接待に関わった人たちの中には、私のことを憶えている人がいるかもしれないわ」
「知ってる人がいる方が都合がいい。エティオピア国王には、僕が代わりに会いに行くよ。僕とエスメラルダさんの顔が こんなに似てるのは、この時のためだったんだよ。きっと」
「だ……だめよ。私のせいで、瞬ちゃんが危険な目に会うなんて」

真っ青な顔で 瞬を思いとどまらせようとするエスメラルダの様子を見て、瞬は、改めて 今日 自分がここに来た理由を思い出したのである。
大切なことを エスメラルダに報告するために、瞬は この浜にやってきたのだ。
「心配はいらない。僕は強いよ。昨日、サクリファイスに挑んで成功した。僕は聖闘士の資格を得たんだ」
その報告をするために、瞬は、今日、このタイミングでエスメラルダの許にやってきたのだ。
聖闘士になるために渡ってきたアンドロメダ島。
そこでの修行に耐えて、泣き虫の孤児が聖闘士になれたのは、エスメラルダの優しい励ましのおかげ。
自分は やっと その優しさに報いることができるようになった。
そう知らせるために、瞬は、今日 ここにやってきたのだ。






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