瞬は、千代田区民――それも かなりの特別待遇を受けている千代田区民なのに、少しも偉ぶったところがなく、また 立ち居振る舞いも どちらかというと控え目で物静かな人間だった。 美しく聡明で、思い遣りがあり、差別意識もなく、誰にでも公平に親切。 千代田区民でなくても特別製の人間だと思うのに、千代田区民なのである。 文句のつけようがない。 瞬は 瑕のない珠。まさに完璧な人間だった。 もうマーマと呼ぶ必要がなくなっても、ナターシャは 瞬をマーマと呼び続け、それ以外の呼び名を使おうとしなかった。 ナターシャに『マーマ』と呼ばれると、瞬も『なあに?』と応じる。 それで、特段の用があるわけでもない時には、ナターシャは『呼んでみただけ』と嬉しそうな笑顔で答えるのだ。 もし それらの行動を、ナターシャが何の思惑も自覚もなく行なっているのだとしたら、ナターシャは もはや野生の勘で パパの幸福が何なのかを感知し、そのための運動をしているのだとしか考えられなかった。 氷河が 自分の恋を自覚する前に、ナターシャは パパの恋に気付いていたのだ。 だから、その日。 「ナターシャちゃんは、本当に パパが大好きなんだね」 「ウン。ナターシャは、パパが大々々好きー!」 そんな何ということもない やりとりのあとに黙り込んでしまった瞬に、 「あのネ。子供図書館でマーマに会うまで、ナターシャにはマーマがいなかったんダヨ。ナターシャは、綺麗なマーマ募集中だったノ」 ――と、ナターシャが急に話し始めたのは、『ナターシャちゃんのママは どんな人?』と訊きたいのに訊けずにいる瞬の気持ちに気付いたからではなく、その辺りの事情説明をすることがパパの幸福に繋がると、彼女が感知したから――だったのかもしれない。 「ナターシャは、雪が降ってる日に 豊島区でパパに拾われたノ。ナターシャの名前もパパがくれたんダヨ。パパがナターシャを拾ってくれなかったら、ナターシャはきっと凍え死んでたと思ウ。だから、ナターシャはパパが大好きなんダヨ。パパは世界一 優しくてカッコいいパパダヨ!」 パパが幸せになるには、マーマが必要。 パパを幸せにするために、自分は何をすべきなのか。 ナターシャには、それが わかっていた。 だから、パパを好きになってもらえるよう、パパの魅力をマーマにアピール。 「そうだったんだ……。うん。ナターシャちゃんのパパは、世界一 優しいパパだね。僕も大好きだよ」 ナターシャのパパ売り込み運動は、確実に実を結びつつあった。 ナターシャのパパ販促活動は、確実に実を結びつつあった――のだが。 氷河の幸せの最大の障害は、氷河が恋した人の気持ちではなく、パパを大好きな娘の存在でもなく、むしろ 氷河自自身の心の持ちようだったかもしれない。 居住区による差別などすべきではない。 東京23区身分制度は撤廃すべき。 東京都民なら誰もが、世界人権宣言の第一条と第二条を そらで言えるはず。 そう思いながら、自分の居住区に誇りを持つことができず、23区の格付けにこだわっているのは、城西エリア練馬区に住み、都心エリアは電車で通りすぎるだけ、城東エリアの墨田区で働いている氷河という人間だったのだ。 |