その日も俺は、いつもの通り、俺の秘密のマウンドでピッチング練習をするつもりだった。 日曜日。 快晴。 梅雨前の 初夏めいた青空が、俺の頭の上にある。 「さーて」 ウチから光が丘公園まで4キロ走ってきて、身体はあったまってる。 天気、気温、湿度、風速、すべて快適。 いい球が投げられそうだ。 そんな予感を感じつつ、最初の一球。 俺が モーションに入った時だった。 「マーマ! ナターシャ、葉っぱが6つあるクローバーを見付けたヨ!」 俺のキャッチャーミット(であるクスノキ)の前に、小さな女の子が飛び出してきたのは。 まずい! そう思った時には もう、ボールは俺の手から離れていた。 その時、俺は生まれて初めて、時間が飴のように伸びる感覚ってのを味わった。 まじで、1秒が1分くらいに感じられた。 俺の手を離れたボールは、その女の子の胸の辺り目がけて進んでいる。 女の子は、目を大きく見開いて、棒立ち。 こんなに時間がゆっくり進んでるなら、俺は自分の投げたボールに走って追いつくこともできるだろう。 そう思うのに、でも、俺の身体は動かないんだ。 俺の手を離れたボールが自分に向かって突き進んでくるのに驚いて、その女の子は目を大きく見開き 棒立ちになった。 ――ように見えたけど、ほんとはそうじゃなかったと思う。 女の子の反応は そんなに速くなかった。 実際には、どこからか現われた人が 女の子にぶつかる直前に 俺の投げたボールを掴んでから――つまり、自分の安全が確保されてから初めて、その女の子は驚いたんだ。 「ナターシャちゃんっ!」 誰かが 俺の投げたボールを掴む。 それから、女の子は、自分に向かってボールが飛んできたことに驚いて、そうして 自分に向かってボールが飛んできてなかったら もう少し早く言ってたはずのセリフを口にした。 「ナターシャ、こんなクローバー、初めて見たヨ!」 って。 なんか、いろんなことのタイミングがずれてた。 人が 音より速く言葉を喋ったり、光より速く動いたりしたら、こんなふうに物事の順番がおかしくなるのかもしれない。 そんなふうに、いろんなことのタイミングが ずれてた。 ともかく、女の子は無事だったんで――最初、俺は、俺が投げた球がすっぽ抜けて、どっか明後日の方に飛んでっちまったんだと思ったんだ。 だから、ボールが女の子に当たらなかったんだと。 そう思った瞬間に、俺が考えたこと。 それは、『ボールをなくしたらまずい』ってことだった。 ボールもタダじゃないんだ。 俺が使ってるのは、1個500円の安物だけどな。 そんなことを考えてから、今は そんなことを考えてる場合じゃないってことに、俺は気付いた。 ストレート ど真ん中しか投げれない俺の球は、もちろん まっすぐ女の子に向かって進んでいた。 どこからか現われた誰かは、女の子にぶつかる直前に、俺の球を掴んだ。 だから、俺の球は女の子に当たらなかったんだ。 そんな、考えるまでもない結論に至るために、俺は どんだけ無意味なことを考えて、どんだけ無駄な時間を費やしたんだか。 こういう時、俺は、自分を つくづく馬鹿な男だと思う。 テストで 情けない点を取った時よりずっと、そんなふうに時間の無駄使いをした時に、俺は 自分を正真正銘の大馬鹿野郎だと思うんだ。 「ナターシャちゃん、大丈夫っ !? 」 俺の投げたボールを掴んだ人が、“ナターシャちゃん”の前に しゃがみ込む。 それでも、ナターシャチャンの目は、その人の目より低いところにあったから――ナターシャチャンは ほんとに小さいんだ。 これくらいの子供って、何歳くらいなんだろう。 「ナターシャ、大丈夫ダヨ! ナターシャ、びっくりしたヨ!」 ナターシャチャンが 元気な声で はきはきと答える。 その人は、ナターシャチャンの無事を確かめてから、ナターシャチャンに微笑みかけた。 「ボールに? 6つ葉のクローバーに?」 「両方!」 ナターシャチャンの声は元気で明瞭。 彼女は 確かに“大丈夫”だった。 「そっか。両方に驚いたんだ」 ほっとしたように言って、その人が立ち上がる。 巨漢でもマッチョでもないことには 初めから気付いてたけど、その あまりの細さに、俺は、ナターシャチャンの100倍くらい驚いた。 しかも、美人。 見るからに優しそうで、大人しそうで、品のよさそうな美人。いや、美少女? どっちだ? 美人か、美少女か。 年齢不詳すぎるぞ、この美人。 この華奢な美人美少女が、俺の球を受けとめたのか? ほんとに? 「俺の球……ボール……片手で受けとめたのか?」 「え? ええ。はい、どうぞ」 美人は そう言って、左手に持ってたボールを 俺に返してくれた。 綺麗な白い手。 ってことは、素手だ。 って、死ぬほど 当たり前のことを考えて、それが ちっとも当たり前じゃないことに、俺は気付いた。 この美人美少女は、キャッチャーミットどころかグローブすらせず、素手で――素手で、180キロは出てたはずの俺の球を受けたんだ。 手は綺麗なまま、骨も折れてないし、痛がってもいない――擦り傷一つできていない。 タイミング的に、俺の球が いちばん球が伸びて スピードが最高だった時に、彼女は俺の球を受けとめた。 しかも、バックハンドで。 こんな 華奢な美人に、どうして そんなことができるんだよ !? 何か捕球のコツがあるのか? そのコツを掴めば、誰でも俺の球を受けられるようになるのか? なら、それを、そのコツを、俺に教えてくれ! 俺の驚愕と 俺の胸中の声なき叫びは、華奢な美人美少女の耳には聞こえてないらしく(当たり前だ。声なき叫びが聞こえるわけがない)、彼女は俺の知りたいこととは別のことを、俺に教えてくれた。 「光が丘公園は、野球場以外の場所ではキャッチボール禁止ですよ。グラウンドを借りるか、投球練習もできるバッティングセンターで練習してくださいね」 それができないから、俺がこんなところで 一人でこっそり投球練習してるんだってことを、残念ながら美人美少女は察してくれなかった。 ま、当たり前か。 「怪我してないのか?」 「僕は大丈夫ですよ。でも、小さな子供は よけられないと思うから……危ないでしょう?」 「俺の球は、180キロは出てるはずなんだ」 「それが人の頭に当たったりしたら大変ですよね?」 「手で受けても大変なことなんだ!」 自分がどれだけ すごいことをしたのか わかってないらしい美人を、俺は、つい怒鳴りつけちまった。 美人が 瞳を見開いて、俺の顔を覗き込んでくる。 なんだ、この 異様なまでに綺麗な目は。 透き通ってて……透き通ってて――。 「お……俺の球を取れるってのは、大変なことなんだ! 誰も、俺の球を取れない。だから俺は、リトルリーグも甲子園も諦めた。プロか、いっそメジャーリーグなら、俺の球を受けられるキャッチャーがいるんじゃないかと、藁にも すがる思いで希望を繋いでるんだ! なのに、そこに ふらっと現れて、簡単に捕球してみせて、それで 呑気に そんな綺麗な顔してんなよ! 180キロだぞ! 自動車より速いんだぞ!」 「……」 俺は、ほんとは、そんな偉そうに強い口調で怒鳴るつもりはなかったんだ。 だけど、俺の超速球を 難なく捕球してのけた美人の目が あんまり綺麗なもんで、どぎまぎして、どぎまぎしてることを隠すために 高飛車に出るしかなかったっていうか、天才美人キャッチャーの何気なさが、この俺をタダの草野球好き程度に見てるみたいなのに、いらいらしたっていうか――。 気負い込んだ俺の大声に、天才美人キャッチャーは一瞬、黙り込んだ。 それまで ルール違反をした未成年を 穏やかに やわらかく諭してる感じだった天才美人キャッチャーの優しい声音が、 「速い球を投げられるだけでは野球選手にはなれないでしょう。野球はチームプレイです」 厳しい口調に変わる。 でも、俺は、それで少し ほっとしたんだ。 時速180キロの球を投げるピッチャーがいて、それを取れるキャッチャーがいる。 その事態が にこにこ笑って済ませていいもんじゃないってことに、彼女も気付いてくれたんだと思って。 俺は、力いっぱい頷いた。 |