氷河を“ちゃんと”。
最愛の母を失ったばかりの氷河に、それは容易なことではないだろうが――という瞬の案(懸念)に相違して、氷河は意外に早く“ちゃんと”なってくれた。
そして、貴族の血によるものなのか、スイッチが入ると豹変するタイプだったのか、“ちゃんと”すると、氷河は管理監督者として 実に有能な男だった。
“基本的に無表情 かつ 必要なこと以外 喋らない”が彼のモットー(?)らしいのだが、酒を飲まずに覚醒している時の彼の睥睨は 尋常でなく冷たく厳しいものだった。
彼の館の使用人たちは、その睥睨で、自分の雇い主が母を失った喪失感から立ち直ったことを知り、即座に業務を再開。
おかげで、ナターシャは毎日 清潔で綺麗な服を着ることができるようになったのである。

「パパは、綺麗で大好きな人がいれば、大好きな人のために、すーごく いっぱい頑張るんダヨ! パパはお姉ちゃんを大好きになったんダヨ」
こうなることは わかっていた。
ナターシャの瞳は そう言っていた。
ナターシャの言う通りなのなら――氷河が自分を好きになって“ちゃんと”してくれたのなら――それは もちろん嬉しいが、瞬には そうは思えなかったのである。
瞬は、首を横に振った。

「そうじゃないよ。氷河は、ナターシャちゃんのために頑張らなきゃって思ったんだよ。しょんぼりしてるパパに元気になってもらいたくて一生懸命なナターシャちゃんを見て、氷河は いつまでも だらしないパパでいられないって思ったんだよ」
赤の他人の瞬でさえ、健気にパパを思うナターシャの力になりたいと思った。
実の父なら なおさらだろう。
「だって、氷河はナターシャちゃんのパパなんだもの」

ナターシャのために雇われたナースメイドは きちんと自分の仕事をするようになった。
今日のナターシャは、花とレースで飾られた綺麗で清潔なドレスを着ていて、髪のリボンも曲がっていない。
愛らしい お人形のようである。
だが、なぜか――。
綺麗な人形のようなナターシャは、しわくちゃのスカート、シミが目立つ よれよれの上着、リボンは半分 ほどけて結んでいない方がましだった時のナターシャほど、生気が感じられない――のだ。
お人形のように可愛らしいナターシャは、薄汚れた格好でパパのために奔走していた時のナターシャほど、元気でも 幸福でもないように見えた。

「ナターシャちゃん?」
瞬が、消沈している様子のナターシャの名を呼ぶ。
ナターシャは、一瞬 泣きそうな目で瞬を見詰め、瞬きをしながら 徐々に顔を俯かせていった。
「ナターシャは、パパの本当の子供じゃないノ。ほんとのパパとマーマはいない。知らない。ナターシャは、パリの最後の すらむのフロウジだったノ。パリの街を綺麗にするって言って、どっかの恐い人たちが、ナターシャたちの住んでた小屋を壊して、ナターシャは行くところがなくなっちゃっタ。どうすればいいのか わからなくて、エッフェル塔なら みんなのおうちで、ナターシャでも住めるかなあって思って……」

スラムの浮浪者たちを立ち退かせるために政府が派遣した者たちに住まいを壊され、自分の家を求めて エッフェル塔目指して歩き始めたナターシャ。
だが、塔に辿り着く前に、アレクサンドル3世橋の上で ナターシャは倒れてしまった。
そこに通りかかったのが氷河だったらしい。
名前が彼の母と同じだったので捨て置けず、氷河はナターシャを館に連れ帰った。

氷河は、ナターシャに、これからは自分がナターシャのパパだと言った。
初めてパパができたナターシャは、その時、パパのためになら自分は何でもすると決意したのだそうだった。
僅か3、4歳の少女が。
そして、その3、4歳の少女が言うのだ。
「パパは お姉ちゃんを大好きになったんダヨ。パパは、綺麗で大好きな人がいれば、大好きな人のために、すーごく いっぱい頑張るんダヨ。パパは、だから元気になっタ。そしたら、ナターシャは もういらない。ナターシャは お邪魔ダヨ。ナターシャは どこかに行かなきゃならナイ」
と。

パパとパパの恋人の邪魔をしてはならないと考えて、ナターシャは この家を出る決意をしたらしい。
ナターシャは、大好きなパパとの別れの日が近いと考えて、沈んでいたのだ。
こんな小さな女の子が。
ナターシャが健気で、可愛くて、おかしくて――瞬は 笑いながら、ナターシャを抱き上げた。
そして、いよいよモード画描きの仕事を再開しようとしている氷河のアトリエに向かう。

「氷河。ナターシャちゃんを連れてきたよ」
「ああ。ナターシャ、今日も可愛いな」
油絵画家たちと違って、雑誌用のイラストを描く氷河は、画布(カンバス)を使わず、紙に絵を描く。
以前はティーテーブルに お茶のセット、花瓶や刺繍の道具が置かれていた氷河のアトリエに、今は 積み木やシュタイフ社のテディベア、色とりどりの糸で鮮やかな模様が描かれた手毬、あでやかな着物をまとった日本人形等、子供の玩具が置かれている。

アトリエの様子が依然と全く違ってしまっているのに、ナターシャは、それでなくても大きな瞳を更に大きく見開いて驚いた。
そんなナターシャを、瞬は、氷河の腕の中に移動させ。彼女に教えてやったのである。
パパの邪魔どころか、ナターシャはパパの人生と生活に なくてはならない存在なのだということを。

「ナターシャちゃん。僕は もちろん 氷河が大好きだけど、氷河の絵のモデルはできないんだ。僕は お医者さんになるための勉強中で忙しいし、日本の会社と 日本の製品をフランスに売り込む お仕事の契約をしているから、フランスの出版社やお洋服屋さんのお仕事をするわけにはいかないんだよ。氷河のお仕事は、絵を描くことだよね。そして、氷河は、氷河が大好きな人の絵でないと描けない。となったら、氷河の絵のモデルはナターシャちゃんしかいないでしょう?」
「でも、ナターシャは ちっちゃな子供で……」
「氷河は、これから 子供服の絵を描くことにしたんだ。既に 飽和状態の女性服より、子供服の方が市場拡大の可能性が大きくて――うん。とにかく、ナターシャちゃんしかいないんだよ。氷河の絵のモデルになれるのは。氷河はナターシャちゃんが大好きだから。氷河には ナターシャちゃんが必要なんだ」
そして、“基本的に無表情 かつ 必要なことも うまく喋れない”氷河には、瞬が必要である。

「パパ、ほんと?」
氷河の腕の中で 氷河の顔を見上げ、ナターシャが心配顔で尋ねる。
すると、この小さな少女が 大好きなパパの恋のために この家を去ろうといていたことなど知りもしない氷河は、
「ああ。可愛く描いてやるからな」
と、のんきな答えを返してきた。
「テニスンのアリスなんかより ナターシャの方が100倍も可愛いから、そのうち ナターシャが主役の絵本を出版することになるかもしれん」
これは必要で重要なことなので、氷河が自分で言う。

「パパッ!」
ナターシャは、両腕でしっかりと、大好きなパパの首筋に しがみついていった。
大好きなパパと 離れたくない。
大好きなパパと ずっと一緒にいたい。
ナターシャの望みは、本当はそれだけだった。
その望みが叶う。
ナターシャの歓喜は、言葉にも涙にもならぬほど大きかった。


愛するがゆえに 気をまわしすぎる小さな少女。
何も考えず、ただ愛するだけの大の大人。
この危なっかしい奇妙な親子から目を離す勇気を持つことができない瞬。
瞬に出会い 恋することでパパが立ち直ったことを、ナターシャは知っている。
瞬が、幼いナターシャの身を案じるがゆえに 自分たち親子の側にいることを、氷河は知っている。
自分がいないと、この危なっかしい親子が破綻しかねないことを、瞬は知っている。
奇妙な愛が、血の繋がりのない三人を しっかりと結びつけていた。


ジョルジュ・オスマンによるパリ改造と 1900年のパリ万博に合わせた建築ラッシュで、パリは生まれ変わった。
生まれ変わったパリに流れ着き、生き、死んで、人もまた変わっていく。
時代が移り変わり、街の姿が変わり、住む人が変わる。
だが、それでも変わらないものが、人の世には確かにあるのだ。






Fin.






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