黄泉比良坂は、ほぼ元通りになっていた。
おそらく冥界消失後に死んだ人間が行列を作り始めている。
その数が、どう考えても実際の死者の数より かなり少ないのは、以前のように 迷うことなく 死者がここに来ることができずにいるからなのだろう。
黄泉比良坂も冥界も 完全復活が成ったわけではないので、死者の魂を呼び寄せる磁力のようなものが まだ脆弱なのだ。
この黄泉比良坂は 生まれたばかりの星のようなもの。
これから成長し、以前そうであったように力を蓄え、歴史を培っていくのだ。

そんな(死者の)人影の まばらな黄泉比良坂に、本当に橘の実をたくさんつけた橘の木が4本 立っていた。
少し離れたところに、大きな桃の木が1本。
「新生黄泉比良坂、新生冥界というのじゃなく、再生黄泉比良坂、再生冥界みたいね。コピーというか、クローンというか。橘の木が4本に 桃の大樹って、以前の黄泉比良坂と同じだわ」
いったい 以前の黄泉比良坂の記憶を保持していたのは誰なのか――あるいは、何なのか。
世界か、神か、人の心、死者の思念か。
ともかく、確かに 黄泉比良坂と冥界は 蘇りつつあるようだった。

「可愛いー!」
たくさんの小さな実をつけた橘の木を下から見上げ、その下で ぴょんぴょん撥ねて、ナターシャは大喜びだった。
ウサギのように飛び跳ねるナターシャを、氷河が抱き上げる。
「ちっちゃい ちっちゃい おみかんダヨ! 一口で食べれるヨ!」
木になっている橘の実を間近に見て、ナターシャは大興奮だった。
そこに、
「橘の実は 大変 酸っぱいので、そのままでは とても食べられませんよ。干して酸味を抜くか、蜜をかけるかしませんと。甘い菓子に慣れた最近の人なら なおさら」
奇妙な生者の一行を怪しんだのか、見るからに“最近の人”ではない人が歩み寄ってきた。

彼は、髪を左右それぞれに耳の脇で結ぶ、いわゆる角髪(みずら)に結っていた。
濃い緑色の袍に白袴。
髪と服装からして、聖徳太子の冠位十二階以前――古墳時代か、更に遡って神話時代の人である。
古代日本に生きていた人であることは確かなようだった。

「ご親切に、どうもありがとうございます。ナターシャちゃん。その実は とっても酸っぱいから、食べちゃ駄目なんだって」
その人の親切な忠告を無にしないために、氷河の腕に抱きかかえられているナターシャに注意してから、瞬は改めて その人の方に向き直った。
瞬より背が高く、氷河よりは低い。
古代日本人としては、背が高い方だろう。
大柄と言っていいだろう その人は、瞬と目が合うなり、
活目尊(いくめのみこと)様!」
大きな叫び声をあげ、瞬の両足に すがりつくようにして、その場に跪いた。

「き……貴様、死んだ身で痴漢行為とは どういう了見だーっ !! 」
瞬の両足を両腕で押し頂いた その人が、怒髪天を突いた氷河に殴り飛ばされなかったのは、ひとえに 氷河がナターシャを抱きかかえていたからである。
そうでなかったら、この死人は確実に この黄泉比良坂で二度目の死を経験していたに違いない。
氷河の怒声で、はっと我にかえったらしい角髪の男性が、すぐに瞬の足を抱えていた腕を解き、
「申し訳ございませんっ」
瞬の前に叩頭した。

「イクメノミコトさま?」
「マーマはナターシャのマーマで、パパのサイアイのコイビトダヨ! ノミでもコトでもないヨ!」
氷河に少し遅れて、瞬とナターシャのレスポンス。
ナターシャは、『ノミ』と『コト』はわかったが、『イクメ』がわからなかったらしい。
そして、ナターシャに『ノミ』だの『コト』だの言われた人は、なぜ ここで『ノミ』や『コト』が出てくるのかが わからなかったようだった。
『ノミ』や『コト』が出てくるわけは わからないまま、気を取り直し、瞬の瞳を見上げ、見詰めたまま、瞬に謝罪してくる。

「も……申し訳ありません。あなたが 私のミコト様にそっくりだったので」
「瞬に そっくりな人間など いるわけがない! 痴漢の言い訳なら、もう少し 真実味のあることを言え!」
氷河は、完全に角髪の男性を痴漢と決めつけていた。
星矢が、呆れた顔で執り成しにかかる。
「こんな状況で 痴漢行為に及ぶ奴なんかいるわけないだろ。氷河、おまえ、常識で考えろって」
氷河に 常識を求める星矢こそ 非常識なのであるが、その点に言及する人間は、その場にはいなかった。
言及している間もなかったのである。
その前に、痴漢の濡れ衣(濡れ衣だろう)を着せられた当人が、すぐに、“もう少し 真実味のあること”を話し始めたので。


「確かに、お顔立ちはさほど……。イクメノミコト様のお名前のイクメというのは命に輝く目という意味です。我が君は、その名の通り、大変 美しい目をした方で――あなたの目も とても美しい」
“最近の”一般人――アテナの聖闘士を一般人に分類することの正否は さておいて――は、人様に平伏されると、むしろ居心地が悪い。
彼が叩頭していた頭を地面から離し 立ち上がったのは、瞬が彼に立ってほしいと、ほとんど懇願したからだった。
かつ、瞬が彼の“我が君”ではなかったから。
そして、氷河が、自分の前で 瞬の目の美しさを褒める男への攻撃に及ばなかったのは、彼の発言が、誉め言葉というより、単なる事実への言及だったので、さすがの氷河も文句のつけようがなかったからだった。






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