北のヒュペルボレイオスと南のエティオピアの中間に位置するギリシャ、アテナイ。 アテナイの国の某所に、アテナの統べる聖域がある。 エロスが 自身の神としての力を試すために軽率に権力者の胸に射た黄金の矢のせいで 思わぬトラブルに巻き込まれてしまった氷河と瞬は、 「祖国のために、しばらく国を出た方がいいわ」 という女神アテナの提案に、一も二もなく飛びついた。 そうして やってきた地上におけるアテナの御座所、聖域。 そこは、女神アナテを信奉する人間たちが形成している小さな町で、特定の国ではなく地上世界全体の平和を守るための闘士が集い、また そういう闘士を育成するための修行の地でもあった。 「神の不手際のせいで災難に見舞われることになったのだから、いつまででも、好きなだけ、ここにいらっしゃい」 と言うアテナに、教皇殿の隣り合う部屋を それぞれに与えられた氷河と瞬は、互いの境遇の類似を知って、友人として行き来するようになったのである。 当初は、二人の関係は静かで穏やかなものだった。 たった一人の肉親を失って 天涯孤独の身になり、生きる目的と幸福になる術を見失い、自分の生に意義を見い出せない。 それは 自分のことで、彼は もう一人の自分であり、だから 彼の気持ちが理解できる。 生きていることが空しいことも、必死に生きて何になるのだと思うことも同じ。 にもかかわらず、誰よりも愛していた人が、残された者の生と幸福を望んでいたために 死ねずにいることも同じ。 欲しているものも、実は二人は同じだった。 「『幸せになってね』。それが、母の最期の言葉だったから」 「兄さんは、僕の命を守るために、自分の命を犠牲にしたんだ」 だから、愛する人の後を追うこともできない。 愛する人がいないことは、一人でいることは、こんなにも寂しくて空しいのに。 互いに互いを哀れむように、そして、そんな自分たちを肯定するために、二人は静かに穏やかに、アテナの町での日々を過ごしていたのである。 人生の盛りを過ぎた老人たちが、一日の盛りを過ぎた夕暮れ時の散歩を楽しむように。 人生の盛りを過ぎた老人たちが、一日の盛りを過ぎた夕暮れ時の散歩を楽しんでいるような、そんな ゆったりした時間に、先に苛立ち始めたのは、氷河の方だった。 「死んでしまった者を懐かしんで 泣いてばかりいないで、そろそろ生産的なことを始めてみたらどうだ?」 突然、昨日までと真逆のことを言い出した氷河に驚き、瞬が瞳を見開く。 「生産的なこと?」 生産的なこととは何だろう。 「生産的なことって、どんなこと?」 全く見当がつかず 反問した瞬への、氷河からの答えは、 「知るか」 だった。 氷河の無責任な提案に、瞬の口元から 力ない笑みが零れる。 「『泣いてばかりいないで生産的なことをしろ』なんて、同じセリフを そのまま言い返されても、俺は何も言えない。だが、おまえを見ていると、そう思うんだ。死んだ者のことは忘れて、前を見ろ。そう思うようになってきた」 なぜ そう思うようになってきたのか、その訳を、氷河自身は わかっていなかった。 だが、自分が母の死を嘆き 鬱々としていることは仕方がないと思うのに、瞬が亡き兄のことを慕い続けて、その若さと美しさを無駄に消費していることには苛立ちを覚えるのだ。 「せめて母の死が誰かのせいだったら、俺は復讐のために生きることもできたんだが、母の死の原因は、突き詰めて考えれば、母が俺を産み、育て、守ろうとしたことだからな。俺が復讐するとしたら、その相手は俺自身。なのに、マーマの最期の願いは、『氷河、幸せなって』だ」 どうすればいいのか わからないのは、氷河も同じ。 否、氷河の方こそ、自分が どうすればいいのかが全く わかっていなかった。 だが、瞬には、亡き人を思って嘆き暮らしていてほしくないのだ。 「神々が企んだように 恋に落ちるのは癪だし……。ヒュペルボレイオスの女王は、俺より20も年上なんだぞ。何としてもエロスの矢の力を試したかったのなら、せめて、おまえのように 若く美しく清らかで優しい心を持った者を選んで、黄金の矢を射てくれればよかったのに」 「……」 やはり今日の氷河は、これまでの氷河と違う。 昨日までの氷河は、例え話にしても、そんな前向きなことは言わなかった。 彼に何が起きたのか。 訝りながら――訝りながら、瞬は、その答えがわかるような気もしていた。 「『生産的なことを始めろ』って、本当は氷河が 自分自身に対して思っていることなんでしょう? 氷河は、氷河のマーマに代わる誰か――氷河が愛せる誰かに出会えれば、マーマが生きていた頃のように、生きることに意義を見い出せるようになるんじゃないかな」 「俺が?」 「うん。氷河は どんな人が好き? 理想のタイプとかないの?」 氷河が しばし 答えをためらったのは、自分の理想のタイプがなかったからではなく、『氷河は、氷河が愛せる誰かに出会えれば、マーマが生きていた頃のように、生きることに意義を見い出せるようになる』という瞬の言葉を 否定すべきか、その通りだと認めるべきかを迷ったからだった。 迷って、結局、否定するのをやめる。 そして、氷河は、 「俺の好きなタイプは、おまえのように 若く美しく清らかで優しい心を持った者だな」 と答えた。 その氷河に、 「若く美しく清らかで優しい心を持った人? 理想が高いね」 と応じてくる瞬に、氷河は心底から感動してしまったのである。 瞬は馬鹿ではない。 観察力も洞察力も、考察力も思考力も、分析力も想像力も判断力もある。 決断力には少々 難があるようだが、どれほど厳しい目で見ても、瞬は頭のいい人間である。 その瞬が、『おまえのように 若く美しく清らかで優しい心を持った者』と言われて、それを自分のことだと思わないのは、完全完璧に 自分が目の前にいる男の恋の相手になり得ると思っていないからだろう。 氷河は、瞬の鈍感振りが楽しくなってきた。 こんな気持ちになるのは、愛する母を亡くして以来、初めてのこと。 楽しくて 胸が弾み――そうして、氷河は、自分が瞬に恋していることに気付いたのである。 瞬は、若く美しく清らかで優しい心を持ち、鈍感ではあるが聡明で、誰よりも氷河の気持ちを わかってくれている人間。 氷河にとっては、理想が服を着て歩いているようなものだった。 「理想が高いというほどでもないだろう。おまえのように 若く美しく清らかで優しい心を持っていてくれれば、それだけでいいんだ。他はどうでもいい。国も身分も地位も財も、全く どうでもいい」 「それだけ……って、氷河が美しいと認める人なんて、どれだけ美しいの」 「俺より美しければ、それだけでいい」 「それだけのことが 難しいんでしょう」 「ちっとも難しくないっ!」 瞬の あまりの察しの悪さに、生きる気力を失っていたはずの氷河が、つい 声を荒げる。 初めて聞く氷河の怒声に、瞬は一瞬 身体を強張らせ、それから ゆっくりと顔を俯かせてしまった。 氷河が、音の出ない舌打ちをして唇を噛む。 いかにも、気まずくなった その場を取り繕うためというのが あからさまな表情で、 「おまえの理想は?」 氷河は、極めて微妙に話題を(ほんの少しだけ)脇に逸らした。 「そんなのはないよ。だいいち、理想通りの人や どんな欠点もない完璧な人間が もし いたとして、人が その人を好きになるとは限らない」 そう答えてから、瞬は、自分が なぜ氷河に怒鳴りつけられたのか、そのわけを(一人で勝手に)理解した(つもりになった)ようだった。 「そうだね。もし理想の人に出会えたとしても、人が必ず その人を好きになるとは限らない。最初に氷河の理想なんて訊いた僕が 間違っていたんだ。ごめんね、氷河」 「いや、そういうことではなくて――」 そういうことではないのだ。 全く、そういうことではない。 「そういうことではなく――俺は おまえに会うために生まれてきたような気がしているんだ。エロスの矢が俺に効かなかったのは、こうして おまえに会うためだったんじゃないかと」 「僕も、氷河に会えてよかったと思うよ。エロスの矢が効かない特異体質でよかった。そのおかげで、同じ寂しさに耐えている氷河に会えて、つらいのは僕だけじゃないってことを知ることができた」 「いや、だから、そういうことではなく――」 いったい どう言えば、瞬はわかってくれるのか。 頭は悪くない――むしろ、かなりいい――瞬の頓珍漢ぶりに、氷河は 苛立ちと焦れったさと、遣る瀬無さと情けなさと、そして、不思議な喜びと高揚感を感じていた。 |