「氷河。僕、一度 家に帰ろうと思うんだ」 と瞬が言い出したのは、兄の誕生日の前日のことだった。 「星矢と紫龍と一輝兄さんだけだと、いろいろ心配だから。食事は紫龍がどうにかしてくれるだろうけど、掃除までは行き届かないだろうし、そろそろ 花壇のペンタスとルリマツリとアガパンサスの剪定を始めなきゃならない時季だし……」 家に帰らなければならない日常生活の都合をいくつか並べてから、瞬は なかなか微妙な微笑を その目許に刻んだ。 「氷河が この館に来てから、あの放浪好きの兄さんが ずっと家にいるの。氷河が ここに来ることになったのは自分のせいだって、兄さんは 責任を感じてるんだと思う。兄さんが ずっと家にいてくれるのは嬉しかったけど、代わりに氷河が欠けちゃったでしょう? やっぱり みんな揃ってないと、兄さんがいても喜べなくて、だから、僕、ほんとは 氷河を連れ戻すつもりで ここに来たんだよ。黒マントさんが 想像してたより ずっと いい人で寂しそうだったから、つい長く滞在しちゃったけど、さすがに もう帰らなきゃ。兄さんが旅に出られなくて苛立ってるだろうからね。できれば、明日、誕生日のお祝いをして、送り出してあげたいんだ」 瞬が帰宅を望むのは、兄に会いたいからではなく、兄を旅に送り出すため。 そうであるならば、氷河としても、瞬を無理に この館に引き留める必要はなかった。 氷河自身、そろそろ瞬のための薔薇のアーチ作りに取り掛かりたかったのである。 花でも野菜でも穀物でも、植物相手の作業には 適した時季というものがあり、その時季を逃すと、望通りの成果は得られないのだ。 「そうだな。いつまでもバカンス気分で ここで のんびりしているわけにもいかん。おい、黒マント。俺たちは家に帰るぞ。長い間、世話になった」 この館で、嫌なこと、不愉快なことは、何一つなかった。 黒マントの野獣は、異郷からの来訪者を取って食うこともせず、親切に もてなしてくれた。 黒マントは おそらく、ただの寂しがりやだった。 だが、家族が待つ家がある人間は、その家に帰らなければならないのだ。 放浪癖のある一輝が、忘れた頃に 忘れずに故郷の村に帰ってくるように。 ワダツミの宮に行った山幸彦、竜宮城に行った浦島太郎、冥界に行ったヘラクレス、妖精異郷に行ったアイルランドの農夫たち。 皆、最後には、自分の世界、自分の家に戻っている。 それが世界の理というものなのだ。 黒マントの野獣は、だが、その世界の理に 真っ向から逆らってきた。 「駄目だ! おまえたちは、死ぬまでここにいるんだ! もし どうしても帰るというのなら――それくらいなら、私に食われて死ぬしかない!」 黒マントの、無駄に長く広く大きな黒いマントが空中に舞い上がり、薔薇園の空を覆い尽くす。 爽やかに晴れていた夏の午前の青空は 黒いヴェールに遮られ、瞬たちのいる庭は薄闇に包まれた。 「黒マント。聞き分けてくれ」 元はといえば、瞬の兄の窃盗行為。 更に遡れば、一輝に薔薇の土産を頼んだ氷河に行き着く。 原因は氷河で、元凶は一輝。 黒マントに非はない。 しかも、この10日余りの滞在で、氷河と瞬は 黒マントが好きになっていた。 二人は 黒マントとの間に いさかいを起こすようなことはしたくなかったのである。 だが、黒マントが そのマントで氷河と瞬の自由を奪おうとしてきたので、氷河は彼に抵抗しないわけにはいかなくなった。 「氷河! 乱暴はしないで! 優しく!」 「わかっている」 瞬に注意されるまでもなく――氷河は 黒マントを傷付けたくなかった。 だから、黒マントのマントだけを凍らせて、砕いたのである。 幾重にも野獣の身体を覆い隠していた黒いマントが砕け散り――そこに、醜い野獣の巨大な本体が現われるはずだった。 黒マントの自己申告によると、“とても醜く恐ろしい姿”“私の姿を見ると、皆が怖がる”――そんな野獣の姿が。 そのはずだったのだが。 実際には、それは、小さな女の子だった。 魔法で広い館と薔薇園を維持管理していたのだから、普通の人間の女の子ではないのだろうが、見た目は ごく普通の3、4歳の女の子である。 それが、庭の上空を覆い尽くすほどのマントを剥ぎ取られ、薔薇の木の脇に しゃがみ込んで、くすんくすん泣いていた。 「く……黒マント? おまえ、自分のことを 醜くて恐ろしい野獣とか言ってなかったか?」 「黒マントさん……?」 これを困惑の体と言わずに、何を困惑というのか。 そういう体で、氷河と瞬が 少女の側に歩み寄っていくと、少女は 。その瞳から 更に涙を溢れさせ、二つの小さな拳を涙で濡らした。 「大きくて怖くないと、みんな、すぐに ここから逃げちゃうでショ」 「いや……まあ、普通は――」 “普通”は、大きくて怖い方が逃げたい気持ちになるのではないだろうか。 ――と、氷河と瞬は胸中で思った。 二人は、自分たちが あまり“普通”でないことを知っていたので、その考えに自信がなく、だから 黙っていたのだが。 「誰もワタシと遊んでくれないから、ワタシ、寂しかったの。ワタシ、パパとママがほしかったの。よそのおうちには、パパとママがいるんでショ」 「俺たちには いないが」 パパもママも今はいない氷河が、少し気の抜けた声で答える。 小さな女の子には、素っ気なく 冷たく突き放したように聞こえるかもしれない声と口調。 瞬は少女が怖がらないように、泣きじゃくる少女を抱き上げた。 「君の名前は何ていうの?」 「名前はない」 「猫か」 「氷河!」 瞬が氷河を咎めたのは、もちろん 時代設定に誤りがあるからである。 今は西暦1400年前後。 夏目漱石が『吾輩は猫である』を発表するのは、今から500年も後なのだ。 瞬に睨まれた氷河が、迅速に失地回復を図る。 「なら、俺が名前をやろう。ナターシャというのはどうだ? 俺のマーマと同じ、高貴な名前だぞ」 「ナターシャ! ワタシ、ナターシャ!」 氷河に名前をもらった黒マントの野獣 改め ナターシャは 大喜びである。 あれほど大量の涙を生んでいたナターシャの瞳は、あっという間に涙の製造をやめ、夏の太陽のように明るく輝き出した。 瞬が ほっと安堵の息を漏らし、微笑む。 「そっか。ナターシャちゃんは寂しくて、パパとマーマが欲しかったんだね」 『ナターシャちゃん』 初めて人に ちゃんとした名前で呼ばれたナターシャの瞳と胸は、喜びで はち切れそう。 氷河と瞬だけでなくナターシャも、ナターシャが魔法で作った館を出ることは すぐに決まった。 ナターシャは普通の女の子でないようだったが、もともと普通ではないから山間の隠れ里に暮らしていた氷河たちには、そんなことは大した問題ではなかったのだ。 「俺がおまえのパパになってやろう。瞬のことはマーマと呼べ。いいアイディアだろう。多分、ナターシャは、世界でいちばん綺麗なパパとマーマを持つ女の子になれるぞ」 「ナターシャのパパとマーマ! ナターシャ、大賛成ダヨ! ナターシャ、綺麗でカッコいいパパと、綺麗で優しいマーマが欲しかったんダヨ!」 ローマとアヴィニヨンでは教会大分裂。 イタリアでは、古代ギリシャやローマの文化を見直す文芸復興の動き。 ギリシャの都市部では、オスマンの影響力が ますます増している。 一輝の故郷は、そんなふうに かまびすしい外界からピンドス山脈によって隔絶された、隠れ里のような村だった。 山の陰に静かに眠るように佇んでいる辺境の小さな村は、おとぎ話のように のどかで、外界の騒乱とは ほぼ無縁。 その村で暮らすことは、安らぎと穏やかさの中で暮らすことだった。 そんな村にある、みんなの家で、氷河とナターシャは すぐに これ以上ないほどの名コンビになった。 最近は、そんな氷河の陰謀に苛立って、一輝の帰郷の頻度が増えているようである。 Fin.
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