瞬の確約に、ナターシャは ほっと安堵したような顔になった。 瞬とナターシャの そんなやりとりを見て、氷河が苦笑いしながら、両腕をソファの背もたれに載せかける。 まるで それが合図だったかのように、ベランダの向こうに広がっていた青空の半分が ふいに灰色の雲で覆い尽くされてしまった。 その灰色の雲は、どう見ても雨雲だった。 「瞬やナターシャは、見た目も可愛いし、気質も素直で優しいから、そこにいるだけで 多くの人間に愛されるだろうが、俺みたいなのは そうはいかん。実際 俺は、苦労した」 「パパは、髪がきらきらで、目は真っ青で、とっても綺麗ダヨ。優しくて強い正義の味方ダヨ。どうして苦労するノ」 そこにいるだけで、パパはナターシャに愛されている。 パパの苦労がどんな苦労なのか見当がつかなかったのだろう。 ナターシャは瞬の膝の上で 大きく首をかしげた。 そして、氷河の愛の苦労がどんなものだったのか わからないのは、実をいうと、瞬も同じだったのである。 マーマに、カミュに、アイザックに――幾人もの人に 命をかけて深く愛された経験を持つ人を、瞬は氷河の他に知らなかった。 氷河のマーマたちと同じくらい深く、ナターシャも氷河を愛しているに違いない。 氷河が愛に関することで苦労したというのなら、それは愛されすぎたことくらいのもの。 しかし、それを“苦労”と呼ぶのは、いくら何でも傲慢に過ぎるだろう。 ――と、瞬は思った。 幸か不幸か――幸いだろう――氷河は、そこまで傲慢な男ではなかった。 氷河の愛の苦労は、全く別のところにあったのである。 「ああ。俺は 滅茶苦茶 苦労したんだぞ。俺ほど、愛で苦労した男は そうそういない。今のナターシャの4倍くらい大人になった頃から、俺は毎日、瞬に好きだと言っていたんだが、瞬は なかなか俺を好きだといってくれなかったんだ。瞬に好きだと言ってもらえるようになるまで、俺は何年も何年も待たなければならなかった」 「氷河……!」 娘に そんな苦労話をする父親がどこにいるだろう。 そんな話を聞かされたら、ナターシャはマーマを冷たい心の持ち主と思い、パパを マーマに愛されなかった哀れな男と思うかもしれない。 瞬は、氷河の苦労話をやめさせようとしたのである。 自分の愛の苦労話を、幸い、氷河は それ以上 語ることはしなかった。途中でやめた。 もっとも、それは、瞬に非難がましい声で名を呼ばれたからではない。 そうではなく――氷河の苦労話を中断させたのは、 「マーマは パパを特別に大好きだったんダヨ。マーマには嫌いな人がいないから、みんなを好きデショ。なのに マーマが すぐにパパのことを好きだって言わなかったナラ、それは マーマがパパのことを とっても特別に大好きだったからダヨ」 という、ナターシャの言葉だった。 暫時、氷河はぽかんと阿呆のように口を開け、ナターシャではなく瞬を見た。 瞬も、マーマの膝の上に座って、パパに鋭い考察を披露してくれたナターシャに、息を吞むことになった。 30秒ほどの沈黙のあと(光速で動くこともできる黄金聖闘士には、1時間にも匹敵する長い時間である)、氷河は長い感嘆の息を漏らしたのである。 「ナターシャは本当に賢いな。俺が そのことに気付いたのは、ナターシャの6倍 歳をとってからだったぞ」 まさに恋の只中にいる人間は誰しも、冷静に客観的に俯瞰して状況を見定めることはできないもの。 ――と言い訳を並べてみても、3、4歳の女の子にわかることが、その6倍 歳をとってからやっとわかった大人というのは、大人として情けない。 それこそが、氷河が愛で苦労したことのない証左なのかもしれなかった。 それは氷河が初めて経験する苦労だったのだ。 そして おそらく、二度目はない。 「ナターシャの6倍 大人になってからでも、わかったならよかったヨ。パパとマーマが仲良しで、ナターシャとも仲良しなら、ナターシャ、それで全然OKダヨ!」 「……確かに。不思議なもので、人は 互いに理解し合えていなくても、愛し合うことができるものだからな」 それは言い訳ではなく、疑いようのない事実だろう。 パパとマーマとナターシャが仲良しでいられるなら、それでOK。それが何よりなのだ。 血のつながらない親子。 法的にも、どんな つながりもない家族。 三人は、ただ愛だけで結びつけられている家族である。 いつまで こうしていられるか。 いつまでも こうしていたい。 胸中で、瞬が そう祈り願った時。 「あーっ、パパ、マーマ、31度! 光が丘公園、31度になってル!」 ナターシャが、急に歓声のような大声をあげた。 「31度? ほんと? ついさっきまで、37度だったのに」 疑わしげに、瞬がパソコンの画面を見ると、確かに、そこには 光が丘公園の現在の気温が 31度と表示されていた。 「さっきの夕立が温度を下げたんだな」 光が丘公園に雨を降らせた灰色の雲は、もう はるか遠くに、その切れ端が残っているだけである。 時刻は4時半。夕暮れには、まだ少し早い。 連日の最高気温37度38度に慣れた身には、31度は涼しく感じられるほどだろう。 「雨は通り過ぎたみたいだし、公園に お散歩に行こうか。気持ちのいい夕涼みができそう」 明日も予想最高気温は38度。 今、この快適な気温の夕暮れ前の時を逃す手はない。 「ヤッター! 公園におサンポだーっ!」 ナターシャにとっては、待ちに待った この時である。 「ナターシャ、すぐに、お帽子、取ってくるヨ!」 出陣の鬨の声を上げて、ナターシャは 帽子を取りに子供部屋に向かって走り出した。 それにしても 外気温31度というのは本当だろうかと、少し疑う気持ちを抱いて、瞬は ベランダに続くガラス戸を開けてみたのである。 途端に 驚くほど爽やかな風が室内に流れ込んできた。 「いい風」 その風を吸い込んで、瞬は深呼吸をした。 血のつながらない、法的にも、どんな つながりもない家族。 ただ愛だけで結びつけられている家族。 いつまで こうしていられるか わからない家族には、一日一日が大切な思い出である。 通り雨の過ぎたあとに、こんな涼しい風の吹いた日があったことを、いつか 大切な宝物のように思い出す日が来るかもしれない。 いつまでも こうしていたい。 瞬が声に出さずに願ったことに、 「いつまでも こうしていよう」 氷河が、声を出して答えてくる。 これは、愛なのか理解なのか。 それは瞬にも、わからないことだった。 こんなにも長い時間を共に過ごしてきたのに、それでもわからない。 ただ、いつまでもこうしていたいと願う気持ちは真実のもの。 それだけは、瞬にも 確かに わかっていた。 Fin.
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