「以前から――へたをすると、聖闘士になる修行のためにシベリアに送られた頃から――俺の中に、瞬を好きでたまらない俺がいることには 薄々気付いていたんだ。あいつが表に出ている時の記憶はないが、あいつから俺宛てのメモや手紙が残っていることがあったから」 「メモや手紙?」 「ああ。四つ葉のクローバーと一緒に、『瞬と一緒に探して 見付けたクローバーだから、大事に取っておくように』とか、そんな伝言が」 「なるほど。それなら、嫌でも 自分の中に もう一人の自分がいることに気付くわな」 「ということは、おまえは もう一人のおまえと記憶を共有できていないが、もう一人のおまえは おまえと記憶を共有しているということになるな。そして、もう一人のおまえは、瞬を好きだということ以外、何も考えていない。瞬との恋を成就することだけが、もう一人のおまえの 生きる目的で、存在意義。それしか考えていないから、理性も分別もない」 「まあ、分別のある男なら、瞬に無理強いなんかしないよな。撃退されるのが わかりきってるんだから」 もう一人の氷河の分別の無さに言及した星矢に、 「反撃されないと思っていたのかもしれん」 紫龍が、抑揚のない声でコメントを付す。 「それは、うぬぼれが過ぎるってもんだろ」 そのコメントを、星矢は軽く一蹴。 紫龍は微苦笑し、氷河は こめかみを引きつらせた。 アテナの聖闘士間に生じた問題は、アテナの裁下を仰ぐのが 本来の対応だろうが、“問題”の内容が男同士の痴情沙汰となると、高潔な処女神アテナに“問題”を報告することは はばかられる。 これは どう考えても、仲間内で 内々に収めなければならない問題だった。 「氷河は、多重人格――いわゆる解離性同一性障害なんだろうな。自分の中に 別人格を作り、自分自身には耐え難い試練や苦難を、その別人格に押しつけて、自分の心の平安を保とうとする病気だ」 そう言ったのは、未来の天秤座黄金聖闘士の最有力候補であるところの龍座の青銅聖闘士だった。 アテナの裁下を仰げないなら、それは 聖闘士の善悪を判断する役目を担う天秤座の黄金聖闘士の判断によるしかない。 天秤座の黄金聖闘士が不在の今、それは紫龍の役目だったろう。 (当事者を除けば、星矢と紫龍の二択。ゆえに 紫龍しかない――というのが実情だったが) 「つまり、自分の中に逃げるってことか。それって、治る病気なのか」 「治ることは治る。解離性同一性障害の人間は、耐え難いほど つらい試練に出会うたび、別人格を作って、その別人格に つらいことを押しつけていくんだ。耐え難く つらいことに出会うたび、どんどん別人格を増やしていく患者もいる。その別人格たちに任せていた つらいことを、患者当人が引き受けられるようになって、複数ある人格が すべて統合されれば、その状態を完治というだろう。あくまで人格の統合であって、他の人格が消えることではない。無論、“完治”せず、一生 複数人格のままの患者もいる。それで生きていけるのなら、そうでないと生きていられないのなら、複数の人格がある方が うまく対処できている状況なわけだし、無理に“完治”させる必要はない――というわけだ」 「でも、それは 逃げだろ。アテナの聖闘士らしくない」 星矢は、氷河が――自分の仲間が――病を完治せずに済ますことには不満のようだった。 “氷河当人のあずかり知らぬところで 別人格が犯した罪を罰することはできないから”ではなく、“それを逃げだと思うから”。 星矢らしいと、紫龍は微笑し、星矢に“逃げ”を責められている氷河当人までが、彼らしさ全開の星矢に微笑していた――より正確に言うなら、“微笑のような表情が自然に浮かんできた”らしかった。 「んでも まあ、それで事情は わかったぜ。氷河の馬鹿は、自分には耐えられないほど つらいことが起きたんで、別人格を作って逃げた。そんな状態でいたとこに 瞬に優しくされた別人格は、瞬を好きになった――ってことだな? 落ち込んでる時に優しくしてくれる人って、天使にも菩薩にも見えるからな。……あれ? でも、それじゃ、氷河当人は 瞬を好きでも何でもないってことか?」 ならば、確かに 氷河を罰することは不当だろう。 氷河当人は、罪を犯していないのだ。 「いや、たとえ別人格でも、それが俺のしたことなら、俺はその罰を免れようとは思わんが……」 にわかに眉を曇らせて、氷河が言う。 だが、その罰は 下してはならないだろうと、今では 星矢でさえ 思うようになっていた。 罪の記憶も自覚もない者に 罰を与えても、罪を犯していない人間は 反省も改悛もないのだ。 だからこそ、氷河は、 「罰は甘んじて受ける」 と、“軽く”言ってしまえるのである。 「こう言ってる俺が、本来の本当の自分だと思うんだが、紫龍の話を聞いているうちに、事実 そうなのかどうか、わからなくなってきた。他にも自分がいるような気もするし」 「氷河……」 自分が犯していない罪の罰をも甘んじて受けると言い切ることで、氷河は瞬の同情を得るのに成功したようだった。 氷河を見詰める瞬の瞳には、重罪人を見る人間のそれとは真逆の 優しさ温かさが たたえられている。 「マーマとの別れ、カミュとの別れ、アイザックとの別れ――氷河には つらいことがたくさんあったものね。その苦しみに打ちのめされずに生き続けるために、いくつもの自分を作り出したのなら、それは氷河なりの 生きようとする意思の表われで、氷河の生きるための努力と強さの証明でもあると思うよ」 氷河の犯罪の被害者が、加害者の弁護に一役買っている。 星矢は、別人格が犯した罪で氷河当人を責めることの無意味と不当には賛同できても、瞬の氷河弁護には得心できなかった。 「おまえ、あやうく乱暴されるとこだったのに、よく そこまで氷河に好意的になれるな」 「僕にそんなことするなんて、それこそ 氷河が通常の判断力を失ってたことの証左でしょう」 「氷河は単に、性欲に負けただけだろ」 「きっと僕の過剰防衛だったんだよ」 被害者である瞬は、自分が加害者になってでも、この法廷を閉じたがっているようだった。 紫龍が、その意を酌む。 「瞬が普通の か弱い女性なら、その身を守るために氷河を拘束するところだが、そうではないからな。瞬が相手では、第二の氷河が とち狂って 瞬に襲いかかっても返り討ちに会うだけだろうから、放っておいても実害はあるまい。被害者である瞬が 罰を与えることを望んでいないのでは、これ以上 どれほど話し合っても、いかなる進展も望めまい」 「それで解放されていいのは、民事事件だけだろ。これは刑事事件だぞ」 「未成年への性犯罪は、親告罪だ。告訴権者が告訴しなければ、犯罪として裁く対象にはならない」 「だからって……」 罪を自覚していない者に罰を与えることは無意味だが、だから無罪放免というのは おかしい。 ――という星矢の主張は、 「氷河は病気なんだから」 という瞬の一言で棄却され、その場は閉廷と相成ったのだった。 |